長い年月としての本

ぼくは知らず知らずの内に本を手に取っていた。絵本から始まっておとぎ話そうして自伝や小説本とそれらは移り変わっていった。哲学や科学、そうして医術までそれらは伸びるかに見えた。浮世をさまよえばいわゆるハウツー本まで書店はにぎわっていた。しかしながらぼくは図書館の外国文学に走った。ぼくは説明書をほとんど読まない。コンピューターを触るにしてもそれにまつわる教材は読まない。浮世の本は読まないのだ。そこには正しさがあふれているが、ぼくにはそういったものは必要なかった。


僕は必要なものだけ取り入れてそうでないものは無視するか忘れることにした。正しさの安売りは僕には空しいばかりだ。そこには長い歴史性を備えた心がない。時代が変わればそれらは一新される。そんな既製品であふれている書店からは僕はますます遠ざかることになった。

ぼくは図書館でも書庫をあさるようになった。図書館でも新しい文学などというものがあり、多くの読者を獲得している本たちが僕には理解できないものであった。つまり読んではみたのだ。だが僕を満足させるような本はそれらではなかったのだ。成熟されたもの。長い年月を経たもの。それでも変わらぬ色合いを覗かせて僕の心を打つものはほとんどが書庫にあった。そこをぼくは遺体安置所と呼ぶ。ミイラになった本たちをぼくは読むことで現在に蘇生させる。その蘇った本は新たに書くべき題材を僕に与えてくれる。つまりミイラは命を与えられるのをまっているのだ。

何世紀にも及んでまるで時間旅行をしているようなものだ。何世紀も前に忘れ去られた時代が現代とそっくりそもままにある。これは驚くべき事実だ。まるで未来を予言しているようにそれらは存在しまるで僕のために書かれたように、ぼくに読まれるのを待っていたかのようにそれらはあるのだ。遺体安置所ではそのようにして命乞いをするミイラであふれている。やがて形を失い灰となってしまう前に僕たちは彼らを蘇らせる必要がある。

日向ぼっこよろしく図書館の近くのベンチで腰を下ろし、ながながと自分の影が伸びる頃まで読み解けば僕たちの現在がきっとどうなるか予言されているのに出会うだろう。




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# by ningenno-kuzu | 2018-01-15 21:44 | Books | Comments(0)

生命とは

僕は生命を人間に限定すべきだろう。人間として生きている限りにおいて人間が良しとする生命は人間以外でも人間の似姿と言ってもいい動物であるかもしれない。心を癒す動物がそれだ。それらは人間を脅かすことはないという前提にある。人と人の間もやはり脅かす相手は敵だ。なぜ生きている都いうことに対して生きている側は脅かせなくてはならないのか? 脅かす対象になるのかなりえるのか? 

自分の長年に付き添ってきた考えに反する意見は汲みがたいだろう。それに対して反論する必要性が自分を律する上に必要な時もあるだろう。だが違う意見やちがう価値観はすべての人間を峻別する、いってみれば個性だ。その違いにより人々はせめぎあう。だがそれは無益なことだ。だが無益であろうと人々は結局その関係性の中で苦しむことになる。誰でも自分を放棄はできないので、自分の考えと人の考えの間に軋轢を感じてしまう。そうして自分を謀反人だとぼくは自分で自分を時に裁く。だが僕としては自分の考えを持っているだけで、誰かを否定するつもりは全くないのに否定したように見られてしまう。それは致し方ないことかもかもしれない。

本当のことを言えば人は人を否定できないだろう。それは原罪というものが等しく我らにあるからだ。とはいえそういったことをいつでも意識できるものではない。人間には限界がある。そういったことを認識するには限界というものがあり、その限界を超えたところにいる人は自分を攻撃するしかなくなり、重いうつ病にでもなりかねない。

生命というのは新たな生命を蔵している。それは言葉というものでもあり、実際の生命、つまり子供というものになる。生命の連鎖が人類の存続可能な世界を担っている。生きて行けるということに問題がなければ人はそこに幸福感を得ることだろう。希望や志を未来に投影することだろう。ただ生きているというだけで不安が心の深くに沈殿していることは避けがたいだろう。この光と影の明滅が人間の生きるを彩っている。

迷わず生きることを選ぶのなら、どんな禍のもとにさらされてもその記録は細い水脈の内側に淀みなくつながってゆくだろう。人の生きるは空しいものかもしれない。がしかし生命は生きることを生き抜くことを考えるべきだ。まだそこには可能性があるのだ。息も絶え絶えの歴史性からつないで新たな時代を想起したまえ。




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# by ningenno-kuzu | 2018-01-14 17:41 | ブログ | Comments(0)

求道者としての職業

ぼくがこの世界にいくらの職業があるか考えてみても仕方がないかもしれない。ぼくは適職をずっと探し求めていた身であり、その変転は求道者故のことでもあった。誰もこの世界のすべての職業を経験することはできない。ある社会人が職を持つ。これは極めて健全なことかもしれない。この世界を構成しているのは何らかの労働であり、労働があるからして現在が成り立っている。こういった認識は誰しも持つことができるだろう。事実そうかも知れない。でもぼくはいつでもそこで立ち止る。労働などというものが本当に必要であるだろうかと。

労働がなければこの世界は存在しない。ならば必要だと結論を急ぐ必要があるかもしれない。だがこの世界自体本当に必要なものだろうか。この問いはおかしな問いかも知れない。僕自身ずっとこの世界に存在した。これからも幾年月存在するだろう。労働という足かせに重圧を感じながら戸惑いながら進むことだろう。ぼくの問いはいたってシンプルだ。ぼくにできる仕事は有るだろうか? ということだ。

数ある仕事。それが僕を生かす。ぼくはすでに死んでいるのかもしれない。つまり僕にできる仕事はこの世界に存在しないのだ。つまりぼくはこの世界では生きてゆけないのだ。新しい世界の創出などといったことなど、人間一人ではできようがない。だがこの世界以外へと変革を求めることはしたとて無駄だろう。新しい世界、そんなものはないからだ。

ぼくは延々と考える。自分の職業をだ。ふと作家ではどうだろうか?  と考えた時期もあった。だが巷をにぎわす商業出版はぼくの書く物との乖離があって、人々の要求をみたすようなものは書かないし書けない。読んでは捨てられるもの。それは僕の中にはない。またぼくはどこの出版社の人も知らない。よって仕事が回ってくることはない。

僕は職業を持ちながらにして失業者なのだろう。仕事を持ちながらにしてホームレスなのだ。仕事とされるもの、職業と呼べるもの。それらが無数にあって世界を構成している。ぼくはその構成員から外れたところにいるのかもしれない。疑問もなくこの世界にとどまることをぼくはできない。




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# by ningenno-kuzu | 2018-01-13 12:58 | ブログ | Comments(0)

ずっと遠くから

何が現実で何が事実と反するか。そういうことはいちいち検証して明るみに出さないと事実であるとか、現実であるとか、はたまたそれは夢であるとか決めようがない。そういう手の込んだやり方で人々は発言しているだろうか? それが事実であるかどうかは疑わしい限りだ。どんな領域の問題でもインスタントにお手軽に人々はわかるという。もちろんそれは事実に反するだろう。でもそんな発言は誰も控えめにしようなどという運動があったなんて生まれてから一度も聞いたことはない。歴史的に見てもあったかどうかは不明。こう考えると不毛な相手に能書きを垂れているともいえる。

とはいえ優秀さを測定したいとお望みの方は自分が優秀でありたいと願うあまり多くの人を利用することを思いつくかもしれない。最大公約数の意見を形成するのは、知らないことを知っているということにしておくのがベターかも知れない。似たような意見の形成が大衆党という名の塊を生む。大衆なんて言ってみたけれど、実際はそんな人はいない。みな個人であり、個人であるから違ってもいる。同じ意見だと見えるのは錯覚で、錯覚を起こさせる対象物は、実際は知らないことを知っているという錯覚、つまり嘘の情報で最大公約数を形成している。共感は個々人でとらえ方は違うが、同じ問題を取り扱っているということにしておくのだ。

まずはっきり言うと、知らないということは何も悪いことじゃない。知っていること自体がおかしい情報の元であったりする。例えば科学者でも一握りの人しか知らないことがあったとして、それが一般的に語られる場合は、知らない人がその情報について語り、その情報を信じてしまうということがある。勿論デマではあるが、事実に沿って知ってはいないが、地位が科学者と名乗れるしかも事実を知らない人が、そのことについて物を申せばそれが正しい何らかの情報となって独り歩きする。それが伝言ゲームとして連なり似非科学者の立派な意見にすり替わるのだ。これはあくまでも例だ。

人間の事実に対する捉え方は非常に複雑だ。時系列に並んだ、一見それらしいことであっても、厳密に問えば事実と異なるだろう。だがそもそも事実とはなんだ? などと問えば延々と考え込んでしまうし、そこに正しさを付け加える余白はないだろう。有名な芥川龍之介の小説に『藪の中』というのがある。そこには殺しを犯した盗人が登場していたはずだが、事件の経緯をいろんな語り手(殺された人まで語る)が語るわけだが、皆がみな同じ一つの事件をバラバラに語られる様を見ているとわけがわからなくなってしまう。一つの事件が語り部によって全く違う事件を扱っているように見えるのだ。芥川はその点をよく知っていてこの物語を編んだのだと思う。これは芥川の優れた点で、彼の天才はここにいありみたいな作品になった。彼の作でも有名な方だろう。

人間という生き物は生きている限り完璧ではない。これはあまねくどの人にも値する。完璧というものがこの世に存在するかと言えばその点も疑問視する必要があるのかもしれない。自分の立脚地点、つまりこの世界での地位や名誉、立場やそれにまつわる性格というものが、いろんな形で作用していて、人格が形成されたとして、それらがどう完璧さを装う必要があるだろうか? 理想的な人物。それはその人に他の人と同じところはあるが、総じて理想とする社会性を持った現実世界の中で理想的に見えるが、その人たちもやはり苦悩があったりするわけで、何もかもにおいて万事が整っている人はいないだろう。

もしそうであるなら事実とは何ぞや? と問うても意味がないかもしれない。もしくは事実とは生きているという上に於いては自分に向けられた事実というのがあり、それは自分以外の人とは違った特殊な捉え方であり、平たくいうと生きていることにしてみればどうでもいいことかもしれない。つまり生きていると同じ事が違うことのように語られるからだ。一つのことを観察するに、その観察結果は、人の数ほどあってどれも正解であればどれも不正解でもあり得るのだ。

こう問うてみるとわけがわからなくなるのは人間の認識の限界があるからだ。生きているというのはだからいつでも不安の中にいるといってもいいだろう。
何かの中で安住することは人間にはできない。新たな脅威がいつ何時に発生するか誰も予測はつかない。そういった不安は誰でも持っていて、その不安の解消に月日を費やすのだ。忘我の瞬間を人々は何かに求めさすらい、忘れているというその瞬間に声明の安心を見出す。

死ぬ準備ができている、もしくは死ぬことを恐れない人は、そういった不安解消に走ることをしない。不安を友人のように扱うからその不安事態を生きている証拠と見なす。不安が襲えば絶望的な気分になるのは誰でもそうで、そういった繰り返しに耐え続け、耐えるために自分以外の認識にノーということで自分の平均を与えることしかできない。自分の考えが間違っていると思って自分を律することが誰にできよう。死んだ人にしかできないような時間の使い方。死を恐れぬ魂が生んだ作品(芥川の『藪の中』みたいな)が我々の胸を打つのは、やはり不安を飛び越えた何かを希求するがためだろう。

途方もない問いかけ。そういったテーマは文人を魅了してきた。そんなテーマを物故作家から引き継いだのだ。そうしてそれを深化させ、書き手はまた新たに投入する。これら歴史は分断されることなくその水脈は繋がっている。地下水を汲み上げるように引き出しては清水のように現代によみがえる。この提出の仕方はエレガントでなくてはいけない。現代でなければいけないのだ。ぼくは図書館の書庫を遺体安置所と呼んだことがある。書き手はそこで死体に命を注ぐべく、その棺桶に手を伸ばし、命を与えなおす必要がある。そこから蘇った死体は、新しい時代を生きることになる。我々の日常、手に取ることがないものを書き手は読む続けそれを手に届くよう、読者に提出する必要がある。そこで語られたものが長い年月の夢を歴史性を帯びている。つまり歴史は続いているのだ。

僕らは安易に事実とは出合えない。出合ったと思うのは錯覚がなせる業だ。ただし歴史性を含んだ情報は何百年、それこそ何千年とした歴史を備えている。それらを無視してはいけない。それは学びというのではなく生きるということだ。生きている以上できることはする。どんな劣悪な環境下でも生きてきた人々がいる。それを読むことで体現して、経験したことのない世界まで身を沈めることができるだろう。それは生きている人間の定めだ。




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# by ningenno-kuzu | 2018-01-12 20:57 | ブログ | Comments(0)

僕の孤独

ある日僕は思いついた。それは大阪で学ぶことだった。つまり一人暮らしだ。一人暮らしは多くの人が経験しているのではないだろうか。またこれから経験する人も多いだろう。

一人暮らしには自由があった。僕の20代前半はそのようにあった。孤独。それは僕にとって宝物でもあった。

延々と文字に向かう。書き、読み、それを繰り返していた。心の感ずるままにぼくは書き連ねたのだ。紙と万年筆。それが僕だった。

友人たちは仕事に恋愛に明け暮れていたろう。ぼくは住み込みで新聞配達をしていた。部屋代はただだった。しかし共同便所に風呂なし。3畳一間。最初は裸電球一つきりだった。ただし若さはあった。そして自由と。

ぼくは孤独を負の側面とは捉えていない。僕の場合は孤独は必需品なのだ。むしろ孤独でないとぼくは何事も集中することができなかった。ぼくは医師からADHDであると診断されたが、ADHDというのは障害ではなく個性だ。個性が世の中に出ると困難な場合がある人を障害を持つというだけで実際は性格であり個性なのだ。

ぼくの時間は延々と続くかに見えた。ぼくは本でも繰り返し読むことにしている。なぜ何度も読むのか自身でも分かつていない。ぼくは読むことは楽しみであり、悦楽であり、欲望の解釈だった。自分の欲望は読むこと書くことに注がれた。むしろそれしかなかったといえよう。またぼくの恋は熱烈だった。恥ずかしいのでここでは書かないが、熱狂的な恋は自問自答を超えて自分の存在論となった。それも孤独故の所業であった。

今から思えばぼくはあの時、まるで宮沢賢治のような修羅であった。求道者だったのだ。かなわぬ恋は終わった。自分で終わらせたのだ。

僕は孤独に絵を描いた。それは大きく膨らみすぎた。そうしてそれは破裂してしっまったのだ。現実と空想が半々のぼく。
夢との境界を忘れた僕。夢と現実のトンネルを僕は何度往復したことだろう。だが現実というのは夢の様なものなのだ。

人が歩くさまを見てぼくは一人歩く。誰にも似てないその歩き方。肩を振るように歩くぼく。それは年をとっても変わらない。孤独であること、それは自分自身であることだった。

みなさん。孤独に苛まれていませんか? でもそれは自由という名のご褒美なのです。切に堪能しましょう。そこからしか新しいものは出てや来ません。猿真似は淘汰されます。そう孤独こそ愛すべき友人なのです。




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# by ningenno-kuzu | 2018-01-09 22:12 | ブログ | Comments(0)

ドストエフスキーの小説

言うまでもないがドストエフスキーの書く小説は優れている。ネット上でも調べてみたが、読者は19世紀のロシアの作家でありながら読み続けられてることが散見される。これは非常に健全なことだ。いわゆるベストセラーではなく読み続けれらる物語は、それこそ今世紀末まで続くかと思われる。つまり読み続けられるのだ。日本では長編作家はぼくは知らない。日本は文学的にはロシアの作家ではチェーホフあたりの系統に進んでいるかに見える。つまり短編が発達したのだ。それは恐らく日本語と日本語で物を考えるには、ちょっとした工夫が必要で、長く物語を語るにはその材料とみなすところが、思想的に成熟していなくて、長編に向かう素地が欠けていたと思われる。

ドストエフスキーといえば『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』を思い浮かべよう。また話は変わるが、ロシアでは彼はそんなに読まれていないが、名前だけは知っている、という有名ではあるが身近な作家ではないようだ。これはあくまでも私見で、ロシアに行った時にロシア人3人に「ドストエフスキー、トルストイ…」と聞いたときに「ああ…」という程度の反応を見てそう思ったのだ。どちらにせよこの作家は偉大で、ロシア文学の中でも抜きん出ている。ロシア文学自体は明治時代には日本に渡来していて、明治時代の文士たちがこぞって読む風景が浮かんできそうだ。早くにそうした影響が日本にはあり、日本の書き手はそれに倣うように書く事に追従したろう。

ドストエフスキーというのは癲癇持ちで有名だ。彼の病が書かせたとも言える彼の小説群のリアリティーと幻想的な(夢みたいな)美しくも儚い描写が緻密に展開されている。彼の長編でのリアリティーの高さは筆舌にし難い。彼は特に説明をするわけでもなく、繰り返される文言や会話で見事に人物を造形している。どの登場人物をとっても魅力的なのは、彼の言葉の使い方にある。またそれを長編という方に仕上げるだけの粘着質とも言える彼のしつこい描写が挙げられる。彼は記憶力がとてもいいのだろう。癲癇という病を持ちながらにしても彼は天才だと言えるだろう。彼に資質にもう一つ加えるなら、彼の投獄の結果、恩赦により処刑を免れたという経験が彼の作品に強く現れている。つまり彼は(何年投獄されたか知らない)牢屋にいるあいだの時間を大抵の人の何倍も自由があったのだ。その牢屋での生活での経験が全ての作品(投獄前は別にして)がその経験より深い思想として、彼の作品を素晴らしいものした。21世紀にもなって読まれている日本の作家はそんなに多くないはずだ。もちろん物故作家ではあろうが。

ぼくはまだ読んでいないが『虐げられた人々』をおすすめする。『カラマーゾフの兄弟』の前身の作で、名前も同じ名前が出てくるからだ。あとおすすめするなら『白夜』。これは本当に美しい物語だ。ドストエフスキーが癲癇による発作時に見た夢がそのまま作品となっているみたいな作品だ。心優しい主人公が儚い恋心を患い、なんともいえぬ寒空のロシアの幻想的な街に降る雪。そんな雪が溶けてなくなる。そんな感じだ。物語に雪が出てきたかどうかは覚えていない。だが『白夜』を読了したらなんとも優しい気持ちになっていると確信できる。そんな小説なのだ。




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# by ningenno-kuzu | 2018-01-04 15:06 | Books | Comments(0)

静寂と落ち着くまでに

偉大な発明や発見。そういったものは理解に及ぶまでに時間がかかる。問い詰めた結果に先を急いで付け足した物事は、一歩先を行き、その先が誰にも見えない。

時代や便利な道具は我々の生活を一変したように見える。でもそれは一種の錯覚だ。ぼくらの振る舞いは形は違えども何も変わっていない。ただ無事であること、生きていることが保証された空間内で見事に生き抜き、あすもまた生きるという時間の有効活用をしている。ぼくらの営為はどこにもないかに見える。誰かが観察せねばぼくらは誰ひとり存在すらしない。また観察対象が多ければ人はいろんなせめぎあいの中、大きな塊のような意見を産む。それ自体が怪物であり生物ならば、それは誰の意見だろうか。

問題がありそうでない、なさそうである。そんな気がする。観察。それは自分が生きていることの一種の証明だ。人類史を紐解くまでもない。
現実は殺し合いだ。ぼくはそれを知っているが、誰にも伝える気はない。そんな馬鹿なと思いたい。だがそれに近い。紐解く我らの実態は殺人者の末裔だとは。

太古の昔。先祖たちは小さな揉め事で殺し合いをした。それは互いにとっては大きなことであった。だがそれは民衆という塊で増幅されたのだ。ないことがあり、あることがない。そんな力が働いたのだ。そこに救いはないかもしれない。そこに救いがないとすれば、僕たちは席とりゲームで落ちこぼれて、この世の生を終える。こんな惨めなといかけは、何処か空々しくもある。生きていること≒殺人であるのなら、僕たちは日々人を殺しているのだ。絶え間ない生命の終焉をドタドタと繰り返している。

明日は我が身と問いかける哲学者。こたえのない世界は延々と渦を巻くように続いていくかに見える。強さ、それは誰にとっても必要だ。強ければ守れる。守る対象を見つけてぼくらは命乞いをするのだ。

もう随分と遠くへ来ました。戻るすべはないのです。空に星が見えますね。そこにたどり着いた頃には、ぼくらは存在していません。そんなに長いあいだ黙考なんてできないのです。人は去り、人は過ぎます。思い出の中にさえとどまらない人と人。綺麗に消えてなくなるのです。あの記憶。忘れてはいけませんよ。あと人類に1000年が残されているのなら(その頃には今にいる人はひとり残らずどこにもいません)振り返る勇気を持たなくてはなりません。

よく考えてください。人間存在がどんなに不思議か宇宙がどんなに不思議かを。すべては奇蹟です。ありえないことなのです。偶然とはいえ、神はこんな謎を残して死んでゆきました。この問は永遠に破られることはないでしょう。そんな英知が人間には備わっていないのです。

# by ningenno-kuzu | 2017-12-14 22:10 | 藝術の光と影 | Comments(0)

ふと考えてみた

時間が伸びたり縮んだりする。これは相対性理論で明らかになったことだ。こういうことをぼくはふと考えたのだ。このことは一般的ではない。つまり時計など日常に使われている正確な時間とは隔たりがある。世間の人はその伸び縮みに日常的に出くわすわけではないのだ。だが実際は認識されないだけで、時間の伸び縮みする場にはいつでもいるのだ。

だけれども多くの人はそこに不思議を感じない。また現代の科学者とて本当の意味で一般相対性理論を理解しているか、といえばぼくには疑問が残る。科学者がいくら科学に詳しくても、人間であるという限界の下に理解できていないのではないかと思う。僕自身、実のところ相対性理論をまったく理解していない。頭で考えてもわからないのだ。

時間が伸びる、縮む。このことは誰にでも明らかではない。時計は確かな時を刻むかに見える。とはいえ世界一正確な時計と言われる原子時計ですら、年間何万分の一か何億分の一かしらないが、狂ってしまうのは確かなことだ。その微視的な狂いは何を意味するのだろう。

この間、ある人と待ち合わせをした。ぼくは待ち合わせ時間の何時間も前に待ち合わせ場所に行くために家を出たのだ。そうして余りにも早いから、映画館で映画を1/3位観て劇場を後にした。それでも待ち合わせ場所に着いたのは1時間前だ。19時待ち合わせであるから18時にはそこにいた。だがそうして時間を潰すためにコーヒーショップでコーヒーを飲んでいると当事者から電話があった。なんと1時間遅れるという。これには参った。正確には30分遅れるということだったのだが、電話をとった時は待ち合わせ時間の30分前、つまり18時半だったのだ。

時計はある意味、正確だ。その概念を用いると遅れた人、早く来すぎた人に大別されるだろう。そもそも共通の時間があるのだろうか? 時計は正確なはずだ。微小な誤差を除けば正確とも言える。誤差は無視できるほどのものだ。だが人間はそういう機械仕掛けでできているわけではない。微視的なものだけでできてはいないのだ。体もあるしそれを統括する頭があり、それらが心を産む。その出来上がった人間は、時計を信じてはいる。だがことは時間通りに進まない。

この論点が相対性理論を語ることに必要ではないのではないかとふとぼくは考えた。またそこに正しさを持ってくるのはどうだろうという思いもある。正確無比な時計。それらは我々の神であるか? 時間の概念そのものが神であって、正確な時計は単なる計りであるか? 時は金なりといった人もいる。また我々は時の矢に乗っかっているようにして老いる。時間は反対には進まない。だがその時でさえ、同じ時を刻んでいるとは思えない。同じ歳でも老けた人若く見える人がいる。それだけじゃなく生物学的に若くしてなくなる人もいる。統計学で平均寿命ははじき出されるが、それはあくまでも平均であって、実際に誰それの人がいつ死ぬかという未来像に重ね合わせることは不可能だ。

この不思議な時間。生物学的には逆まわしのフィルムみたいには動かない。ということは時間にはビックバンの始まりと終焉の人間版とするなら、人は生まれ死んでゆくということがわかる。それが一番正しいのだが、その宇宙観を誰しもが共有することはない。こんなことに興味のある人は少ないと思う。とはいえこれら不思議は究極の人間存在を問うことに寄与すると思う。青年期の問題がこれらの概念から導かれることもあろう。

心理学とエネルギーは何らかの関係にあるのか? こんな疑問も僕の中にはある。心理的な問題が世の中を動かしているように思われるからだ。世界が動くとはエネルギーがなければ不可能だと思うし、心理学から人間本質を導き出し、解決に向けた方策を練るにはやはりエネルギーが要る。つまり人間存在そのものがエネルギーを持った存在者であるということは確かなように思う。だがそれは普段は誰も思わないだろう。エネルギーそのものがエネルギーについて考えるとはおかしな話かもしれない。

人間の個人の持つエネルギーは何かを媒介した時に発生すると思う。またそれらが記録するにふさわしければ第三者の手で残される。記憶されることだろう。自分のエネルギーを知るには時間的流れの速さ遅さが問われるかもしれない。速さは歳と共にますが、それは経験値というエネルギーを得たからかもしれない。

ぼくはこんなことをふと考えてみたのだ。そこには結論はない。正しさが正義というものと違うように、数ある中の一つであるということ。時間は誰にも操れないということ。エネルギーが時間を伸び縮めるということ。そんな気がするのだ。

# by ningenno-kuzu | 2017-11-30 16:04 | エム・アイ・ケイ・アイ理化学研究所 | Comments(0)

明石公園

出かけるまえに明石にふらっと寄った。シャッターポイントを覚えていたつもりだったが、忘れていた。だいたいこんな感じだった。でも昔撮った紅葉の方が綺麗だったよ。
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# by ningenno-kuzu | 2017-11-23 18:59 | ブログ | Comments(0)

ブツブツ交換

これとあれとこれ。交換。毎度お馴染みの交換。何かをすればどれくらいかお金を得る。お金は交換可能なのでどれそれはこれくらいで交換できる。

こういったことは原始時代の物物交換時代にもあっただろう。何かを得るには何かをせねばならない。この社会の構成の一部はそういう手続きでできている。なんとなく子供時代を過ごした頃と何も変わっていないような気がする。何に価値を見つけるか、何に価値を込めるか。ヴィトンのバックは僕には不要だ。ただでもいらぬ。だとすればそれは無価値。とはいえ通り相場では価値が有る。つまりぼくにそれが価値を生むとするならヴィトンを転売すればいい。価値の変換だ。

手続きがややこしいのは価値がバラバラであることだ。お金ですら価値がなかった時代がある。何を信ずべきなのだろう。人々の願いは宝くじでも当たれば…、ということか。だが何も変わらない。伝道の書ではどんな贅沢をしてもただただ虚しいとある。巨万の富を得ても、美女を侍らせても、人々から尊敬の眼差しで見られてもただただ虚しいとある。人の世はそういう虚しい努力をもってして得ようというお金であったりするわけだが、そんな虚しい言い訳は己の手を見て判断するしかないのかもしれない。

キルケゴールの時代でも、若者は金さえあればと言っていたという。その虚しさをキルケゴールは知っていた。何かを得ることは何かを失うことかもしれない。人と比較して自分が恵まれないと思うのは本当のところはおかしな話だ。人と人は比べようがない。そもそも基準なんてないのだ。自分という人間があってそれ以外は別世界の産物であって、比べること自体おかしな話なのだ。

はい220円。と言って何かを買う。だがそれは別に300円でも買う人は買う。だがそれが100円であっても買わない人は買わない。価値の込め方、もしくは配分の仕方は個人個人違う。均一化したがるのは日本人の特性かもしれないが、そうした傾向で判断は致し兼ねる。たくさんの黒いスーツ姿に安心したりする。自分以外が自分のようにある。似ていると錯覚できる。そこで安心を少し得たい。そんな思いが同じような配列を生む。

綺麗な衣装を着た女性。化粧を施し、誰にも笑われないような素敵な絵姿。とはいえそれも現代風のアレンジがある。こうすれば個性的というフレーズ。だがそれも無意味に見える。歩き出した幼児が、まるで奇っ怪な言葉を発し、こちらが理解に苦しむ時に、親なら何らかの言葉を発し、自分に手を伸ばす子に愛想を振りまくことだろう。そんなやりとりには理屈はいらない。ことはまだ何も知らない言葉だから奇声であったりすることは子供なら許されるが、大人なら病院送りだ。

パブロピカソは子供は天才だといった。そのことは現在では確かだろうと思える。まったく理屈を知らないのに理屈を超えた常識を超えた存在者こそ子供なのかもしれない。子供のままに大人になった人を天才というのかもしれない。

でもさ。金儲けって何なんだろうね。なきゃ困るが、そのために自分を切り売りしたくない。そのために努力なんてしたくない。なんでも貢献できる魔法のお金。そんな世界に安住しているのは世界の何%だろうか? 原始の時代。それこそその日暮らしだったと思う。都市化した街並みを見ると砂漠にいるような気がする。もしライフラインが止まったら、実りないこの地では…。

ぼくはブツブツと文句を考え、この狭苦しい経済の虜になり、明日あたりコーヒーでもせしめようかと考えている。それにいくらかいることだろう。高いか安いかそんなこと考えない。

# by ningenno-kuzu | 2017-11-20 22:33 | ブログ | Comments(0)

自画像 paint by 魔ギオ


by 穴田丘呼