IE9ピン留め

金儲けのために生まれたんじゃないぜ

ぼくが誰でどんな奴かどうでもイイだろう。こんな奴も居るんだ。世間知らずと笑われるだろうが、たった一個の命があるんだ。金儲けで、それだけで生きているなんてうんざりしないか? どうでもいいや。世間の風は冷たいぜ。この時期にはうってつけだね。何かしていたらその道のプロだとは思うが、サラリーマンでも何か出来るのだから、プロなんだけど、どういうプロも胡散臭い。自分さえ良ければいいなんて、資本主義らしいかもしれないね。

親友が地に落ち着けと以前、年賀にあった。そうだね、と思う。が、ぼくは誰でもない。ただの生ける人間。個、あれど個人なんだが、やっぱり世の中はそういう個を認めたがらない。個性的と言われても、そこになんの価値があるんだ。ぼくは目立ってしかたがない。ぼくのごく普通はイカレテいるか? まあ、どうでもいいことだろ。ぼくだってお金がもらえる日は嬉しい。でもおかねで買えないものもあるんだ。

21世紀になっても人々は変わらない。見てくれは新しくなったり様変わりしているように見えるが、人間の中身はそのままさ。ぼくが善行を積んだわけじゃないが、また、誰かを避難できるほどまともではないが、どういう事だ、と思わず絶句してしまうことがある。妹と母の喧嘩なんて虫も食わぬわ。何気ない喧嘩でもこちとら困るぜ。仲がいいから言いやすいというか、身内だから言えるのかもしれないが、身内で喧嘩するんだから、国内では相当なものだな。外国とは戦争をしてもおかしくない。そうじゃないか? 大概の仲たがいなんてどうでもいいことだ。ぼくは平和主義というより、調和主義なので、不協和音は聴きがたい。違った意見があればそれはそれだし、同調でも全てがOKというわけじゃない。命が命を蹴落としたりする、そんな何気ない日常にうんざりしてる。

知人にぼくの作を読んでヒューマニストですね、とわれたが、そういうのは少し違う。ぼくはガキの頃の問いかけをしてるだけ。笑い飛ばされそうな問いかけだ。自分がそんなに大事なのか?とか。殺し合いはいつなくなるとか。まあそんなくだらない問いなんだ。ぼくは僕という自分を持つが、それはぼくだけが持てないもので、世界と共にあるとでも言おうか、ごく素朴な立ち位置なんだ。

ぼくという人間は多分、常識常識では測れない行動をしてきた。でもそれは少し違うだけなんだ。無視出来るどうでもいいこと。でも、人々はそうはとらない。金儲けはうんざりだなと言えば、笑われて、恵まれてるからでしょう? と言われるかもしれない。そうだろう。でもね、それを僕だけにとどめる積もりはない。誰かと分かち合って行けることになればいいなと思う。ぼくがまったくひとりだとは感じないよう、ぼくだって前向きになりたい。つまり生きたいてことさ。僕だって安らげる一時が欲しいんだ。それを金で買えとは困ったものだ。

そうじゃないだろ?

# by ningenno-kuzu | 2012-01-29 16:44 | ブログ | Trackback | Comments(0)

必ず生きて帰ってくるから

風が音となって聞こえる。窓を叩くのだ。その音は夜にしみる。RCサクセションの『まぼろし』でも聴きたい気分だ。ブルーではなく、悲しい音色だ。誰も彼もがぼくを知っているように振舞う。ぼくはまだいないのに。ここまで来た。帰るところはないようだ。傷はここにあるのだ。誰かいるだろうか?笑うのか?誰もがぼくはあーだこーだ。それは違うなんてどうして言えるだろう。戦場にいる兵士は血の涙を流す。いまここにいます。帰ります。そちらへ。

そこは暖かいのだろうか? 体を休める寝具はあるのか? ぼくは歩き疲れました。ここからどこかへ、放浪してさまよいあぐねて、ぼくは地上の果てに来てしまった。そこから先は誰も行ったことがない。方位磁石は子供の時になくした。イカレタ求道者となって、ぼくはそれでも前進する。時間の矢が向かう方向へとぼくは進むのだ。頼りない淡い優しい記憶によって。

ねえ。聞こえるかい? 胸の鼓動が。ぼくには赤い血が流れているのだ。全身を包む赤いサイレン。懲りることなくぼくはその日を過ごす。「生きているのかい?」「ええ、生きているわ」。生命がここにも宿るのだろうか。「必ず生きて帰ってくるよ」その先は泣き声だ。息を呑んで正直にこたえるならば。

誰なんだろう。ぼくは。どこに行くのだろう。ぼくは。

# by ningenno-kuzu | 2012-01-23 18:24 | ブログ | Trackback | Comments(0)

ジェローム・ディビッド・サリンジャーのライ麦畑

世界的な著書、『ライ麦畑で捕まえて』は1919年1月1日生まれの作者によって書かれた。この書物は世界でもかなり多くの国々で翻訳されている。いわば世界的なロンセラーだ。日本では確か野崎孝氏によって翻訳されていると思う。おそらく白水社だ。単行本ではなくタブロイド判? だったと思う。村上春樹氏翻訳もあるようだが、そのバージョンは読んではいない。どちらにせよ、この本は単行本から文庫にならなかった本ではある。それはそれなりに売れるからだ。また、野崎判はあとがきにサリンジャーの解説があったように思う。ただその内容は覚えていないので、知ってる限りの記憶で述べて、この書の紹介にしたい。つまり個人的意見に過ぎない。

ライ麦とライは英語では二面性が見えると思う。ひとつはライ麦のライ、もう一つは嘘のライ。この単語も、本書を知る上で必要なキーワードになってくるだろう。ホールデンコールフィールドは、この小説の主人公だが、サリンジャーは彼を『気違いのぼく』に既に登場させている。長さ的には本書より短く、圧倒的に点景を捕らえただけの作品になっているが、「気・・・」が本書の下書きであるのは明らかだろう。サリンジャーはこの作品を長編へと書き換えたのだ。どちらが良い悪いではなく、テーマを追求する作家にはありがちなテーマの焼き直しである。こういう言い方をすれば、それが悪いみたいだが、ぼく自身テーマを決めて、延々書いたりしているので、ありがちなと表現したが、いわゆる求道的な書き手なら、そんなことは当たり前で、サリンジャーみたいな特殊で優れた作家では、それは切実な問題を孕んだ小説なので、そういう流れになったのだろう。

主人公、コールフィールドはできそこないだ。いわば劣等生。高校を放校となり、新しく入学した高校ですら、同じ道を否が応なしに放校処分、つまり退学処分になったしまう。歴史の先生の家まで行って、先生に主人公が書いたエジプトの話、老いた先生を気遣いながらも主人公は、老教師の読み上げる、自分の確かエジプトについてのレポートを聞いて、老先生が私がなぜ落第させたかわかるかね? と問う。コールフィールドはビックスドロップのプンプンする先生の部屋を後にして、先生が言うのももっともだと。つまり彼はどこかイカレテいるのだ。思春期の他者との軋轢。外れもの感覚。いわゆるアウトサイダーのような孤独感。そんなものを主人公は退学処分において知らしめられる。主人公がインチキというのも虚しく響く、大人たちとの決別宣言だったのかもしれない。DB?かDJだったか、主人公の兄に会ったり、フィービーという幼児、2歳か3歳の妹に会ったり、放校された学校を懐かしんで見たり。

おそらく大人のインチキな世界とフィービーというまだ怪我されていない無拓な妹と話す、兄、コールフィルドは、親に見放されることを覚悟して、フィービーという幼い妹とそれらしく話したりするのを忘れない。休みで家に帰るのではなく、学校を退学させられたので、仕方なくフィービーに会いに戻ったのだ。親の目から隠れて。そしてさ迷う彼コールフィールドは、イカレタ頭を持ちつつ、誓う。ライ麦畑から落ちこぼれる子供たちを救うんだと。捕まえると。これはアメリカの歌だろうと思う。このフレーズというか曲は知らないのだが、タイトルと同じ歌が、アメリカの曲としてあるの自ないかと思う。
思春期に誰でも一度あったような経験。大人と子供。その対立。この世界を彼、サリンジャーは見事に造形したと思う。人物の登場の仕方と主人公と話す人々。ホテルに娼婦を呼んだりして、何がしたいのか戸惑う主人公姿があったりと。都会的な要素を盛り込みつつ、主人公がインチキな学校パンフレットに突っ込んだりしたり、大人の欺瞞を付いたり、交わることのできない学校の生徒たちとの間隙の救いのなさ。

サリンジャーは『できそこないのラブロマンス』という小説まで書いてる人で、ちょっと外れものに対して造詣が深いようだ。彼のそのタイトルを聞いて、マーク・トウェインの『エスキーモー娘のロマンス』を思い出すのは僕だけだろうか? それとヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を想起するのはぼくだけだろうか? どちらにせよ、もし賭けるなら、この二つの本をサリンジャーは読んでいる方にかけたいと思う。急増して、この文章を書いてるのだが、あまり深く立ち入ることはできなかった。自分の意思で書いているというものではなく、聞かれたから書いているみたいな感じなので。でもまあ、何か書くのにリクエストされたほうが楽だ。が、気分的に冴えてないから、あまり良い内容にはならなかった。それは仕方がない。

# by ningenno-kuzu | 2012-01-16 19:41 | エッセー | Trackback | Comments(0)

『ポンヌフの恋人』

この映画はもちろんフィクションだ。だがしかし、それはとても熱いフィクションなのだ。たしかレオス・カラックスが監督名で、確かというのも毎度おなじみの記憶に頼る僕のやり方で、ネット上で調べてはない。そこに誤謬が生じるかもしれないが、それはそれでいいだろう。軽い言葉の読み違いだし、新たに構成する新たな呼称になるかもしれないからだ。

かの監督は非常に優れている。ある時期までだが。というのもぼくはかの監督作品を見る機会に恵まれていないからだ。これがジェームズキャメロン監督なら話題にもなるだろう。とはいえこの監督がアート系なり、娯楽性の少ないものばかり撮っているからではない。ご娯楽性も十分あるし、いや、余りあるし、少なくとも『アメリ』くらいは人気が出てもおかしくない。ただし、本作もそんな最近のものじゃない。また、配給方式が、僕の預かり知らぬところであるはずなので、資本という意味ではフランス映画はちと弱い。

ポンヌフ橋をフランスを訪れたメンバーが見たというが(パラノイアのメンバー)、僕の見識が正しければ、現在、残っているその橋は実はモデルのはずだ。つまり橋を作って映画を撮ったが、その橋を壊さずにそのまま使っているのだ。確かそうだと思う。その橋は花火の打ち上げと船の航行、そして川に飛び込んむ二人の男女のためにある。ビノッシュ演じるヒロイン役、そして、奇怪な顔をしたアンヒーロー。恋人役の女性は目が見えなくなる。いやそうだったか、そうなったか。強烈な愛憎と、強烈なひとつ。つまり二人がひとりのように。

トンネルでの棒なにかに火を付けて振り回す男。すべてはその女性に捧げられた哀歌。ちぎれないように必死で男は静かに狂う。いや、狂気まで愛を貫いている。その二人は・・・。

結末はビノッシュによって変えられたそう。監督も自分の彼女には弱い。絶望的な船から川に飛び込むシーンを二人手をつなぎ、まるでハッピーエンドみたいに。カラックスはほんとは川に飛び込み、スクリュウーに巻き込まれるところまで考えていたはずだ。つまりバッドエンド。でもそこに女性の意思が加わって、ほのかな夢の世界にとどめてしまった。本作と似たような、同じ監督作品で『汚れた血』があるが、アート系の子には好かれるが、一般的ではない。少なくとも僕はそう思う。悪いのじゃなく、アート系の人にはおすすめだが、というところ。映画好きならやはり『ポンヌフ・・・』だ。

長くなるのもなんだし、年末の疲れがたまっているので、切り上げます。ほんと何もしたくないが・・・。ではでは。(o・・o)/

# by ningenno-kuzu | 2012-01-04 17:43 | movies | Trackback | Comments(0)

冬の雨

忘れ去られた、『逃げ去る恋』。明らかにトリュフォーの作品だけど、彼の作がハリウッド並みにうけたとは思わない。でも通がどうのというわけじゃない。この冬、静かに雨があった。人知れず降る雨。夜中のうちに降って、日が高くなり、傾く頃にその痕跡はすべてなくなった。この世界はある意味、悲劇的だ。でもそれだけじゃない。なんとなく穏やかな気持ちにもなれるときがある。そうだ、そこの君。まだ知らない君。名前を教えてくれたまえ。そう、その日が記念日。歴史が始まる。冬の雨。冷たい雨。知る人ぞ知る雨。冬の寒さに怯えている雨。

こうして延々といつか降る雨のために、ブログになぐり書き。さようなら。雨。人類の存亡をかけた雨。僕たちは地中深く水を求め、雨の過去の姿をそこに見出す。雨に触れたすべてのものをかけている雨の水。空に浮かぶ雲が、湿度100%の雲の中にあって、温度の関係で天上から落ちた雨。冷えきった体にはその雨は刃だ。寝首をかく鋭利な刄。お父さん、まだ生きてますか? 熱エネルギーになりましたか? 地中深く骨のままですか? 塵芥になってフラストレーションを伴って、今頃回遊しているんですか? ぼくにはよそよそしい死も、詩も、どこかにきっと眠っているんだ。でも起こすわけにはいかない。ぼくのなかにきっといるからだ。

ああ、そのうち会いにゆきますよ。叶わぬこともあるでしょうが。ふらっと世界をのぞきに行きます。黒いレインコートをプロペラにして。ふあふあの布団を敷いて、枕を高くして、夢に見ます。明滅する水の玉。それを誰かが、雨といった。さようなら、この世界。わからず屋だね。聞き分けが悪ければ100点取れませんよ。白紙回答でよろしいでしょうか。テスト氏はまだまだ、この世界に常駐しているようだ。これからゆっくり。ご堪能賜りたい。静かな雨の中で、知らない体が凍てついている。冬の寒さを知りながら。冬の雨をあまおとを僕たちは見過ごして眠っているんだ。


誤字脱字ご勘弁。

# by ningenno-kuzu | 2012-01-03 20:32 | 日記 | Trackback | Comments(0)

今月は・・・。

今月はブログを更新しない。疲れ果てている。というのもたいていの人みたいに休みがないから。あと、ぼくは誰かだとはほとんどの人がわからないだろう。ぼくは書き手でもあるのだし、ぼくの個人情報はすべてでっち上げかもしれぬ。年齢等ね。さすがに性別は男性だとあかそう。ぼくがどこの誰だか、それにペンネームは一つきりか、その辺をすべて語っているわけではないので、そこのところ申し訳ない。

すべては生から死の間が語ってくれるだろう。

# by ningenno-kuzu | 2011-12-16 17:15 | ニュース | Trackback | Comments(0)

思いつくまま徒然に

さて、何を書こう。なんでもいいのだけれど、疲れはててる今はいけない。芸術集団パラノイアというのは10年以上前に結成した。ぼくが主催者であるが、それらしいことは特に何もしてないね。パラノイアを作った当初、パラノイアと浮かんだ語句を調べはした。すると体系だった妄想を持つ人をそう呼ぶらしい。つまり理路整然としていながら、実はそれは空論であるという感じかな。もっともらしい嘘とも言えるかもしれない。メンバーは地域限定ではないが、物理的に関西地方で占められていた。だが、こちらもいろんな方面に出かけ、九州と北海道の方も加わった。なんだかんだと10人はメンバーはいたと思う。ただぼくは怠け者なので、ほぼ自分だけ活動し、仲間には特に何かを求めさえしなかった。また、時と共にメンバーの電話番号等が変わったりして連絡が取れなくなったリした。これではいかんね。

このブログはほとんど見にくる人はいないけど、アメリカやヨーロッパ、中国からもアクセスがあったりする。なぜだろう? 海外の外国人でぼくのブログサイトを知ってるのはフランスの人だけで、それ以外思い当たる節がない。が、まあいいだろう。そんな事。

パラノイア自体の憲章というか、そういうのを編んで見るのもいいな。で、メンバーを募集する。それも一考かな。

また、パラノイア通信を書きます。期待はしないでください。では、おやすみ。

# by ningenno-kuzu | 2011-12-11 21:56 | ブログ | Trackback | Comments(0)

秘密の会合

昨夜、パラノイアのメンバーと一緒に飲んだ。久々の街のみである。彼とも久々だが飲むのも久々。パラノイアといっても邂逅というかんじで、とくに何も話さなかった。久しぶりだね。パラノイアを結成してから何年だろう? そんな話だ。彼とはおそらく15年にはなる。なんだそうか。そんな長いことしてたんだ。で、ぼくは何を成し得たか?
なんにもない。これは驚く必要はない。みなさん、風邪をひかないように。とりあえず、そんなことは大事でしょ?

# by ningenno-kuzu | 2011-12-04 18:12 | ブログ | Trackback | Comments(0)

生きてるって素晴らしい。死ぬ必要はないだろ?

はぁそうですか、なんともはや。そう思い悩みなさんな。生きてるんですよ? 死者を弔う必要があるじゃないですか。死者を弔うって、T.Sエリオットの「残酷な季節」? にあったような気がする。まあ、とにもかくにも、ぼくが生きていて、そりゃありがたいことですな。今は眠たくて眠たくて仕方がない。もちろんそんなことは苦痛じゃない。むしろ眠れる、ということに感謝感謝だ。おまけに夢もついてくるかもしれない。

なんだってそんな面下げてるんだ。暗い顔は暗い朝には似合わない。グッドバイ、なんて去ってゆくのか。いやはや、生きてるのだ。面倒はこの世のうちになんとかしよう。生きてることの素晴らしさを知ろう。明日は来る。やがて未来が見える。その先、つまり自分の自分だけの未来を憂いてブルーになっても仕方がない。ぼくたちは生きている。この一つの命題は誰しも同じひとつの命に問われるんだ。バカ者たちがほざこうが、そんなもの知ったことか。ぼくたちはいきてるんだぜ。引き返しできない生の中で、一回限りの生を生きてるんだ。ある種の宗教の謳い文句では、ライフイズアートだ。でもね、そんなことはどうでもいいんだよ。君が男性なら、一人の娘を思うとき、そこに光と影の像が現れると、賢治も言っているじゃないか。うたえ! 生命の詩を。そこかしこにある、世界の宝を求め、砂嵐に会おうがどうってことないじゃないか。そんなことにいつまでも関わっているわけじゃない。

時はすぐるのだ。遠回りしても、つかみかけた切符を落としたとしても、ミレーの落ちば拾いよろしく、せいぜい空蝉に時の矢を放てば良い。気づいた時には、浦島太郎のじいちゃん、ばあちゃんだ。さあ歩け! そこに土かアスファルトかコンクリートとか、そんなものが自分の足の裏に響いてないかい? 聞こえるだろ。それはなぜだ? 誰かに追われてるか? 逃げてるのか? その靴音は自分が出した音かもしれない。つまり君は生きているんだ。靴が擦り切れて歩くのに苦労しても、時間は逆剥けにはならない。物理の矢は均等に、そして伸縮自在に伸び縮するが、ぼくらの先の地平線から崖へと続く先の先なんて、誰も知らないんだから。そんなのを見てから、天井へダイビングしても遅くはない。切れ切れのタコ糸をつたって、登る蜘蛛たちが、誰かのために天国へと閉じ込めてくれるというかい? そんなものはないんだ。でもね。この世界は素晴らしいのさ。ここにこそ永遠があり、天国でも地獄にでもない、刹那というなの永遠を我々は刻んでいるんだ。

さあ、前を向こう。どこかにゆく。風に流されて、明日辺り、どこかの球状星団の地球より良く出来て快適な星に住んでるかもしれない。たとえそれが、夢見ている間にせよ。ぼくらが生きているという証明には違いない。

さて、今宵も静寂のなかで、星に囲まれて眠ります。おやすみ。☆彡

# by ningenno-kuzu | 2011-11-28 18:15 | エッセー | Trackback | Comments(0)

ぼくの声と共にアート

# by ningenno-kuzu | 2011-11-24 18:30 | 藝術の光と影 | Trackback | Comments(0)

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