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宇宙の描像

太古の昔から宇宙を眺めていた人々がいる。それらの人々の宇宙観は新たな発見によって変わってきた。科学というものが叫ばれるようになって、もしくは観測機器の新たな捉え方によって宇宙は変化しいてきた。宇宙は変化するのだ。それは我々の見方によって変化する。

素粒子物理が宇宙の一つのモデルであると捉えることができると思う。それはビックバンにいっよって囁かれ、現代科学の発展と共にあるかのように見える。

単純に言えば素粒子は素粒子でしか観測は不可能かもしれない。例えば光子を観測しようとすれば一つの光子を飛ばして観測すべき光子にぶつけそのはじかれた光子の位置を観測する以外ないだろう。勿論これは一種の思考実験であり、実際に光子と光子をぶつけることは不可能だろう。また位置と速度は同時に観測できないという。その点について僕は画期的なアイデアは持たない。ただし光の速度が普遍であるのだから速度は観測する必要がないだろう。恐らくこれは光子というわけではなく、一般的に素粒子と呼ばれるものなのだろう。

宇宙は有限であるか無限であるか?  現代の物理学では有限であるという説が有力だ。ビックバン説が正しいとしたなら、どう考えても有限であると言えよう。ただし一般的に使われている時間という物差しでは、人々はそこに無限大を感じることだろう。

であるがして、物理学というものを科学者の手に任せてよいものだろうか。宇宙は科学者のためにあるものだろうか? 科学という専門分野が特別な物であろうか? 

宇宙が科学者のためにあるわけではないように、人々に関係がないわけではない。大きな意味では人々の持つ宇宙観が社会や国々の在り方を決めるのだ。そこに神の存在を感じる人々も居ることだろう。物理学という神と縁遠い分野と思われがちな科学者であってしても、物理の法則から見て神がいるとしか思えないと発言する科学者もいる。この問題は根深く、恐らくこの問いに答えられる科学者はいないことだろう。

専門性を高めることは社会に適応するためには良いことだ。だがその専門性の高さが災いして、正しく宇宙の描像を描けないのではないかと僕自身懸念している。つまり有益な問いかけとして人々の未来をはぐくむ世界観の創造に欠けるのかではないかと思うのだ。また科学者の発言が科学的に見ていつでも正しわけではない。それはどんな世界にも言えることで、人間は間違った情報の下に生きているといって差し支えないだろう。

もし間違いに気づいたならそれを正す姿勢が人間にはつようなのだ。どんな人間も誤謬を犯す。それはどうしようもないことで、価値観や世界観、そうして宇宙観というものを照らし合わせて、世界の創造をその目で確かめる必要がある。人間が一生かかっても得る事のできない諸問題もあろう。しかしながらつまずきつつも将来に向けて、人類の共通する命題を宇宙と共に歩もうではないか。

夜空には星がある。その輝きは灼熱の太陽の数多多数だ。キラキラときらめき光を何千光年という人類が存在していない遥か昔の記憶と共に我々に囁きかける。その神秘的な広大な宇宙はいつも人間と共にある。



by ningenno-kuzu | 2018-03-31 07:37 | エム・アイ・ケイ・アイ理化学研究所 | Comments(0)

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