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夢の様な物-生きる意味を問う

僕は夢に生きているのかもしれない。夢とは? 僕は生きているのだろうか?  それぞれの問いは僕に浮かぶ心の中の映像だ。現実とは何であるかということに起因した問い。こたえを探す方が難しい物がある。生きていることが、生きていることそのものが、判断することになる自己自身は瞬間とその連続体の中でとらえられる。悲しくも生きることそのものには何の意味もない。我らの生きるは生体としても数々の論理が備わっている。時間軸は元に戻らない。一定方向に生体は突き進む。人が人を規定することはできない。事実上できないのだが、ある種の塊であるといえる習慣で我らは選ぶ。

一定方向に世界は動いているかに見える。だがそんな刹那的な看過しえる状態ですら我々は確固としたもの、いやその中にある矛盾を放棄してうごめいている。誰かをとらえることは実際のところできないのだ。だができたとする前提が我々の価値観に備わっている。そこで人々は議論するのだ。それは正しいからではなく、正しさを求めているからではなく、他に選択肢がないからその中でいろんな白熱した議論が行われる。

だがどういう話でも確かな物がないのだ。多くが選んできた現在を歴史的に見てとらえることのできる個人は存在しない。僕らはただただ生きていることしかできないのだ。そこで仰ぎ見る世界は実は不透明なものであると認識することはない。大地ですら地震を起こすように、決まりきった法則は人間にはないのだ。そこで不安や猜疑心に苛まれ、人々はやいばをむき出しと自分と違う相手に時としてその刃を向ける。

これらは心理学的に導かれたものではない。つまり人間が人間を理解する事はないという前提のもとに感じられたものである。

生きることの不安定さを人間はいつも感じるわけではない。意識が時にのぼった所で我々は自分を観測するしかできないのだ。日々の暮らしが何であるか、疑問にわくことはたいていの人にはほとんどないのだ。とはいえそのことが別に間違っているわけではない。人間には理解できることに限界があるだけで、生存する限り誤謬ははかり知るものではない。

夢は現実と似ている。似ているというというのは夢が求めているものが現実離れしているのに個人は夢に時に救いを見ているのだ。白昼夢やそういった想像は人間の心の慰めにすらなることだろう。大きな枠で考えればポジとネガの関係性みたいにそのどちらとも個人でないとはいえないのだ。またその二つを分離することはできない。その二つが我々を生かしていて、共通の命題を持つことができるのだ。



by ningenno-kuzu | 2018-05-12 11:56 | 藝術の光と影 | Comments(0)

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