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カテゴリ:Books

  • 『マークトウェイン短篇集』―その中よりエスキモー娘のロマンスを取り上げます。
    [ 2012-04-24 19:08 ]
  • 森川雅美詩集 『夜明け前に斜めから陽が射している』森川雅美 著 思潮社
    [ 2012-04-20 17:22 ]
  • ぼくが今、読んでる本、その他雑事
    [ 2012-03-19 19:04 ]
  • 『パンセ』 上下 パスカル著(新潮版)
    [ 2012-02-12 12:58 ]
  • Camera Obscura カメラ・オブスキュラ(暗箱) ヒルデブラント作 ”ハールレム森の不愉快な人”
    [ 2011-07-15 08:34 ]
  • ホーキング博士のこと
    [ 2011-05-08 19:52 ]
  • 『適切な世界の適切ならざる私』文月悠光
    [ 2010-11-07 13:43 ]
  • 川上未映子『ヘヴン』
    [ 2010-10-29 21:43 ]
  • 『正之の老後設計』 三田地 智 著
    [ 2009-09-26 15:00 ]
  • 小説『遊学三昧』<ある愛情物語> 杉本 利男著
    [ 2009-09-15 15:23 ]

『マークトウェイン短篇集』―その中よりエスキモー娘のロマンスを取り上げます。

マーク・トウェイン? 誰だ、という人。『トムソーヤの冒険』、『ハックルベリーフィンの冒険』を覚えてないかね? ああ、子供の頃に読んだわ、ていう人いますよね。ああ、あの人か、という人も。マークトウェインはペンネーム。ミシシッピ川の汽船が航行するのに安全な川底の深さの単位だ。マーク~トェイン(ニ尋)! ニ尋(ふたひろ)とは日本での単位。えっ、てぇことは日本とアメリカは同じ単位か? そういうことになろう。・・・、ということにしておこう。ぼくはあまりのも疲れはててるのだ。厳密に問わないでくれたまえ。

マークトウェインの短篇集は、新潮文庫にある。ただし翻訳が古い。言葉遣いが多少硬いのだ。だが、おすすめするよ。彼はE.A.ポーなどと並んでアメリカ文学の古典、単に古典というより後の作家たちに多大な影響を与えた作家なのだ。たしか本名はサミュエル・ホーン・グラマンス。彼は文字を植字工として覚えた。学のある人ではないんだ。だが、彼の本を読んだことがある人はとても信じられないくらい豊かな彼の創造物を読んだこととなる。彼の当時の体験記なども出版されているが、その多くは書店では見られないだろう。ぼくとてすべての彼の書を読んだとは言えない。だろう。さてさて、本題に入ろう。

『マークトウェイン短篇集』の中の「エキスモー娘のロマンス』を取り上げよう。とはいえ、本書を手にして述べる訳じゃない。記憶を頼りに、半ば創作に近い形で述べてみよう。ぼくは短篇集自体通して読んだが、なぜその中からこれを選ぶかと言えば、痛烈な現代批判がその中に潜んでいるからだ。考えてもみたまえ、エキスモーのことをぼくたちはしっているだろうか? 彼らの大切なものを知っているだろうか? その大切なものと言えばぼくたちが笑い飛ばしはしないまでも、何でそんなに重要か我が目を疑うものばかりなのだ。創作的に書くと言ったが、ここまでは割りと正確だ。が、わからぬ。

愛しい? 人を待つまでエスキモー娘はその人を想い、その人のために大切にエスキモーが大切なものを大切にしている。いや、実はそんな話なのだ。それを見ている作者の視点がある。それはトウェイン自身だったようだが、その中に彼は現代人(アメリカ人といったほうが良い)に痛烈な皮肉を込めている。金券主義の差別主義者のアメリカ人に、深い一撃と、エスキモー娘に対する思いやりをこの作にトウェインは込めているようだ。是非、一読あれ。これが難しいのなら、『マーク・トウェイン自伝』をおすすめする。電車の中で読まないでくださいね、これは。思わず吹き出しますから。

以上、手短に。誤字脱字ご容赦ご容赦。

by ningenno-kuzu | 2012-04-24 19:08 | Books | Trackback | Comments(0)

森川雅美詩集 『夜明け前に斜めから陽が射している』森川雅美 著 思潮社

森川さんは父親をなくしたばかりのはず。彼の詩集に扉を開けると「父に」とある。誰にでも父親はいる。その役目を果たしていなくとも。森川さんにとっては大切な父親だったのだろう。ぼくはこの詩集をポツリポツリと読んでいった。タイトルがどの詩にもなかったので、そういうものか、と読んでると最終ページにふられていないはずのタイトルが載っていた。それをタイピングしようと思ったが、こちらは疲れているのでそうは簡単意はいかない。だから写真でもと思ったが、僕のカメラの性能がぼくの撮りたいようには撮れないので、諦めた。

この詩集は非常に静謐なところがある。何を問うこともなく進んでいるかのようだ。ことばは語られるが、そこにそれ以上の意味を付加価値としてのせてみよう、という作為を感じない。非常に自然発生的なもので、凝り固まったセンスの悪さをうかがい知ることはできない。浮ついた表現がほとんど無く、力動的に或ところのものを取り上げているといった感じの佳品作ばかりだ。読んでいた心動かされるというのではなく、読んでいるからこを言葉を短に感じているといった作品なのだ。現代詩でこんな素敵な詩集を読めるとは思わなかった。棺桶に入ったような詩か、ことばをいじくった詩か、そんなものしかないような中でよくぞ書いてくれまいした、と、太鼓判を押したい詩集である。

幾ら何度かお会いしたことがあるといえど、イイものはこのように取り上げてみるべきだね。知ってる人だから甘く見たのではないことをいい添えておく。ただし、彼のツイーターでの発言は全くの俗人のそれだった。やはり詩人は詩を書く事が重要なんだと思う。そこでしかないと。

by ningenno-kuzu | 2012-04-20 17:22 | Books | Trackback | Comments(0)

ぼくが今、読んでる本、その他雑事

現在、読んでる本は3冊ある。ひとつは『ナイフ』重松清 著 新潮文庫 もうひとつは『稲垣足穂』稲垣足穂 著 筑摩書房 最後に『精神病理学原論』 ヤスパース著 である。これらはほとんど関連性がないように見える。事実そうかもしれないが、ぼくが現在、読んでいる本には違いない。どれも興味深くあり、それなりに楽しめそうだ。それが本なのである。

ぼくがブログサイトに載せている動画、静止画はほとんどが、その9割がぼくが撮影したものである。ぼくは近年、感覚でしか撮影しないので、技術的な問題を省みる必要がない。いいもの悪いもの、そういうものがぼくの中にあり、ぼくが感覚的に選んだ、もしくは撮影したものがこのサイトにある。音楽サイトはぼくは一切、自分では作ってない。が、選んだのはぼくであることに変わりない。と、いうわけでこれとった金貨金言なしに、今日は筆を置きます。

by ningenno-kuzu | 2012-03-19 19:04 | Books | Trackback | Comments(2)

『パンセ』 上下 パスカル著(新潮版)

誰しも解決不可能な問題に頭を悩ませたことはあるだろうか。そして、この著を手にした人はどれだけいるだろうか。この書はもう日本で紹介されてかなりな年月を経ているだろう。哲学的な命題を我々は探し求めている。そこで立ち止まって本書を手にし、知的好奇心にそそられ読了した人もいることだろう。しかし、ぼくの場合、この書の下巻は読めなかった。頓挫したのだ。なぜならそこにはキリスト教的な命題にパスカルは思いを馳せていたからだ。ぼくがキリスト者ならそういった問題に立ち至らなかっただろうが、ぼくはコテコテの日本人なのでどうもその下巻は面白く読めなかったのだ。だから最後まで読めなかったのだ。

いや、それにしてもこの書の内容は全くと言っていいほど記憶にない。それは本書のせいではなく、ぼくの頭の出来が悪いのであって決して本書のせいではない。ただ、哲学的なことで頭を悩ませている人にはうってつけの本だと思う。とくに宗教に対して抵抗がない人はスラスラと読めさえする。それは僕の記憶にない程度に読みやすかったからで、記憶にないということは、ぼくから言わせれば良書ともいえるからである。例えば有名な語句で「人間とは考える葦である」と書いたパスカルは、その一語だけで、すべてを語っているかのように思えるのだ。ぼくは全面的にその言葉を支持できる。薄い記憶では章立てでその書は書かれていたように思う。どちらにせよ良書なのでおすすめしたい。

by ningenno-kuzu | 2012-02-12 12:58 | Books | Trackback | Comments(0)

Camera Obscura カメラ・オブスキュラ(暗箱) ヒルデブラント作 ”ハールレム森の不愉快な人”

彼の作をタイピングしようと思ったのだけど、そんなに長くないまでも、訳者と出版社のことを思いそれは抜きにして本作を紹介したいと思う。かの作はオランダ文学なんたらに入っている作で、単体では彼の作品を読めない。しかし、その卓越した滑稽さをぼくはオランダ文学なんたらで、この人に注目せざるを得なくなった。もうおそらく流通はしていないと思うが、あの時代、つまりぼくなんかが読書に走っていた頃には、こんなマイナーなオランダ文学を読めたのだなと思うと、小春日和ではないが、ぼくにとって好ましい時代だともいえるだろう。

語り継がれるべきものが、流通していないというわけで分断されるのは少し悲しい。ネットで少しみたが、ブログ? にひとつ紹介されているだけで、他にはなさそう。何も外国文学だからどうのという気はないが、読者が少ない読み物は世の中から消えて行くんだな、と思うとやり切れない。本作の諧謔、滑稽さは落語にはみられないその地の特産物だ。書き物を試行錯誤して考える時、異文化の作品を読むと閉じられた世界から解放されるような気がするのはなぜだろう。むかしの文人たちは主に外国で文学なら文学という物を研究していた。今頃の作家さんてその点、どうなのだろう。

この作品集はどこかの図書館には埋もれていると思うので、ぜひ手に取ってもらいたい。良いものを残すより、売れるものがある時代にはこういった作は、風穴を開けてくれるだろう。

by ningenno-kuzu | 2011-07-15 08:34 | Books | Trackback | Comments(0)

ホーキング博士のこと

ホーキング博士(後は敬称略)の最新刊の本を読まれただろうか? タイトルは『ホーキング、宇宙と人間を語る』だったように記憶している。と、いういい方はふざけているが、記憶というのはあいまいで、振り向けばその書物を手にしタイトルもやすやすと見ることができるが、ぼくはそんなことをしない。それをして得することも損をすることもないのだが。

本書は宇宙物理学での特に新しい発見を記載しているわけではない。ホーキングの知的好奇心に基づいて本書は書きすすめられている。SFや世界各国の神話が出てくるので、ホーキング自身、単に物理学を特別扱いしていないようだ。ただやはり彼のスタンスは物理学にあり、突っ込みどころ満載なSFや神話の事例を引いてはいる。どちらにせよ、画期的な問題には触れてはいない。だだし、宇宙物理学という物に触れるには、本書は最適かもしれない。一般的にという意味でだが。この世界は一進一退ともいえる世界で、あり得ないと踏んでいる(ぼくがね)統一場理論を研究しようという研究者もいるのは確か。前もここで書いたが、その理論を完成させた人は、ノーベル賞どころか”神”といえるだろう。

by ningenno-kuzu | 2011-05-08 19:52 | Books | Trackback | Comments(0)

『適切な世界の適切ならざる私』文月悠光

楽天ブックス: 適切な世界の適切ならざる私 - 文月悠光 : 本

by ningenno-kuzu | 2010-11-07 13:43 | Books | Trackback | Comments(0)

川上未映子『ヘヴン』

川上氏の本を読むのは2冊目である。『乳と卵』、そして『ヘヴン』。どちらも女性の知り合いに勧められた本。もし勧められていなければ読んでいなかったろう。それは作品のせいでも、作者のせいでもない。ぼくは有名、無名にかかわらず本という媒体によるいわゆる読書が、自分が選ぶというようなスタンスをとれなくなった。それはぼくの生活態度のためで、あらゆる本の魅力が失せたためではない。ぼくは書き手でもあり、書き手であるがゆえに呪われた宿命に翻弄されつつあり、その状況を打破するためには、とりあえず、ただ漫然と生きることに慣れなければならないと自戒しつつある。

そもそも、この世のあらゆる図書、日本で出版されている本に限っていっても、そのすべてを読みつくすことなど物理的に不可能だ。ぼくが今まで選んできたものは偶然でもあるし、ぼくがある、ということにおいては必然かもしれない。本とはそんな出会いの連鎖で蓄積されたものだ。目的のない旅人のようなものかも知れない。単純にいえば、生きていれば本も読むこともあるということだ。

以前、ぼくの知り合いの本を取り上げたが、知り合いでなければ読むことも、知りることもできなかった。それは人間らしい、ごく人間らしいふるまいの一景である。正しさ、律儀さ、そんなものがもしかしたら人間にあったのかもしれない。人間に対する並々ならぬ好奇心がぼくを突き落とし、その中の一人に出会い、そうして好意的な感情のもとにぼくはそれら本を取り上げてきた。そこには人間としての反応しかないかもしれない。ごく穏やかな。しかし、ぼくは自分のために生きることに辟易としていて、知り合いであるがゆえに好意的に、いや、ぼくは創作物のすべてにおいて敬意を表するような人物であるのでどんな作も自分なりに楽しめて読めたのだ。

川上未映子氏はぼくとは無縁の人。知り合いでも何でもない。現代文学でそういった人を取り上げるのは初めてだ。だが、先のとおり、勧められた本ではある。人間として出会った本、人間から伝わった本。本書は後者だろう。ただやはりそこには人間が介在しているのだ。

『ヘヴン』はイジメを取り上げた書である。本作品を吟味する前に先にある事件、イジメによる自殺という事件のことを話さなければならない。事件は本書の発行後であり、中学生、小学生という違いはあるけれども、フィクションと事実という関連性の中から、創作するものとして考えてみたい。

小学生、その自殺はごく最近だ。ネットで調べればもっと詳しくわかるというか、ぼくの記憶を強くするが、ぼくはいつものようにあえて一回限りの本事件の、ネットでの記事の記憶からここに記すことにしよう。だから事実誤認もあるだろうが、それはぼくの創作者の態度であり、報道する側、いわゆるジャーナリズムとは一線をかくす。ぼくには世論を導く必要はないのだ。

では、ぼくの記憶より。小学生6年女児。お母さんのために編んでいたマフラーで首吊り自殺。カーテンレールにそのマフラーをかけ首吊り。お母さんはフィリピン人。お父さんは日本人のよう。首吊りしていた彼女はある漫画を描いていたそう。転校生が来て、その転校生に「友達て素晴らしい」みたいなことをその漫画で言わせている。父親は何度かいじめについて学校側に相談していた模様。いじめは給食中での無視だったとされているが、それ以上はぼくはしらない。給食を食べる時、席をみんなが(おそらく女性同士)囲んである中、彼女一人が、つまり一人で食べる格好。はっきり言ってぼくには自殺に至る、筋道がわからない。原因がわからないというか、ぼくには理解不能なのだ。小6だったぼくは、まず死という概念すらなかった。だから彼女を死に追い詰めた背景が見えてこないのだ。ぼくは小6の頃、自分はアンドロイドだと思っていた。人間という生き物ではないと。

ただ彼女の生まれ育った背景には、日本という国に外国人が多く流入してきたという事実があるだろう。今では外国人は珍しくはなく、ぼくの近所にはカメルーンから来た一家がいる。ただもし、彼女の住む地域が田舎であれば、現在といえども珍しいかもしれない。事件は実名報道され、市町村もおそらく報道されていた。ぼくが記憶していないだけで。神戸で起きた過去の小学生の自殺報道は実名報道はなく、そしてどことも詳しくは表記されていなかった。これらの違いが何を意味するのだろうか? おそらくネットが現代ではあるから、かりに伏せていても明らかになるものだから、報道する側がそれに便乗してそれら報道を執り行ったのであろう。ぼくはそういった報道を批判するわけではない。ただ現代という物がそのようなものだと認識するまでである。ただ一つ言えることはフィリピン人である母親が、日本語を話せたかどうか、また、職を持っていたかどうかだ。多くのフィリピン人の女性はいわゆる夜の仕事くらいしかない。ぼくの知っているシングルマザーのフィリピン人はラウンジみたいな所で働いてい、なおかつ昼も職を持っているみたいだ。彼女には中学になる娘がいる。ぼくの友達は現地で出会ったフィリピン人と結婚したが、日本語が話せない。外国人と結婚し子供をもうけたら、金銭面において余裕がない限り働かなくてはならないのだ。外国人が日本社会において。

差別がないといえば嘘だろう。日本人同士であってさえあるのだ。小学生で自殺まで追い込まれた彼女の耐えがたき生はどこから生まれて来るのだろうか? 本当のところをいうとわからないのだ。生と死は永遠のテーマだろう。もちろん永遠というのはぼくの中の形容詞であるにすぎないが、人類が絶滅するまでのことを考える暇もないしそれまで生きてないし、宇宙そのものがなくなることも鑑みて、ぼくは結論など急がない。

さて本題に入ろう。川上未映子氏の『ヘヴン』。いじめる側といじめられる側を描いた作品だ。こいう構図が作品を構成する上で必要だったのだろうか? もちろんそうだろう。言い換えるなら強者と弱者だ。この対軸が作品を書く上の必要不可欠な要素だったのだろう。作家という者は(ぼくもそうだが)作品を評されるのは良いが、物語の主人公なら主人公の名前を間違われたりすると多少、不快な思いになるものだ。しかしながらぼくのブログはたとえ不特定が見ようとも多数派ではないし、また、影響力もないことから、誤字脱字を含めた本作の読み違いに(作者が読むこともないという期待も含め)寛容であってほしいと願う。

ぼくはこの作品を一度しか読んでいない。そして読後、数日以上は経過しているので淡い記憶から進めなくてはならないことを明記せざるを得ない。繰り返し言い訳になるが、その点を強調しておく。物語の始まりは淡々と繰り返される暴力的なイジメから始まる。主人公のぼくがいじめられてい、その彼はそれを反抗することもなく受け入れている。そのあと彼の机に手紙が机の下に貼られていたか、中に入っていたか記憶はあいまいだが、彼に手紙が来るようになる。作者はここでイジメについて書かれたものではない、となぜかト書きを入れている。たぶん手紙が来た、その後に内容を書く前に書かれていたように記憶している。ぼくはまだ相手のわからぬ手紙の内容に興味を持った。だが、その手紙が来る、ということにぼくは興味を魅かれたといった方が良く、その手紙を記憶しているわけではない。いじめられる側のぼくに、ぼくはほのかな期待をそこから得るのではないかと、今になってそう思う。だからかぼくは気に入ったのだ、そこが。だがやがて相手が同じいじめられっ子であるコジマとわかる。コジマは女子生徒のいじめられっ子だ。確か手紙で会おうという誘いがあり、そこで会って初めてコジマだとわかったのだと思う。はじめは主人公であるぼくが、いじめっ子の誰かが誘っているのではないかと疑っている。だが、彼は状況が変わるなし、いってみようと決意して会うのだ。それがコジマだった。

イジメられてる同士がこうして会う、ということは何を意味するのだろうか? この出会いから手紙のやり取りが始まるのだが、そこからぼくは手紙そのものにあまり興味を抱かなくなった。その関係がだんだん手紙のやり取りのより、リアリティーが少なくなっているように感じたのだ。

(この続きはまた日を改めて書きます。まだ途中です。いやはや疲れます)

続きを書こうと思ったが、だいたいあらすじを書くような感じで進み、読んでいない人がでできそうなので(と、いうか考えて)巷でいうところのネタバレ(この言葉は好かぬ)になるので、あと少し書いて幕を引こう。
楽天ブックス: ヘヴン - 川上未映子 : 本





by ningenno-kuzu | 2010-10-29 21:43 | Books | Trackback | Comments(0)

『正之の老後設計』 三田地 智 著

三田地 智さんから2冊目の本をもらった。もらったのは数ヶ月前になるが読んだのは最近だ。まだお礼の電話さえしていない。これは良くないと人並みに思う。ここで紹介して、1冊でもセールスをあげることができたら、ぼく自身としてはうれしいことだ。このブログを書き終えたら、電話をして御礼を申し上げよう。まあ1冊売るためにこのブログを書いているわけだが、どうしたらうまい文句が言えるのかはぼく自身不明。まあ紹介がてら感想を書くしかないのかもしれない。

『正之の老後設計』は短編集だ。それを紹介すると「正之の老後設計」、「不信」、「KA」、「兄妹」、「告げ口」、「オルガナイザー」以上だ。ぼく自身が一番気に入っているのは「オルガナイザー」だ。ぼくはたいがいタイトルありきの人間なのであるが、三田地さんのタイトルのセンスはそんなに悪くないと思う。ただぼくは短編をおもに書こうとしている人間なので短編集にはかなり辛口だ。

三田地さんの小説はどれも落ちがない。ぼくは掌編にさえ落ちをつけるのに、三田地さんの小説には落ちがないのだ。だからどの作品をとってもぶつ切りのような気がする。最後は何を意味するのかその方向性をぼくは読み取れなかった。確信まで迫ることができなかったのだ。なぜここで終わるのか? そんな疑問符はどの作品にも沸いてきた。読んでみていわゆる読後感がしっくりしない。終わったと思える作品群ではないのだ。これ困った問題だが、悪いことだけでは終わらない。作品のひとつひとつにキラリとひかるものがないわけではないのだ。

ごく最近読んだ「オルガナイザー」について言及してみよう。その社会問題をはらんだその作品は、一女性の活力に富んでいる。いや、三田地さんの経験が生きている。ぼくの知らない世界を主人公は歩み、そして謎の(ぼくにとって)数行でその小説は幕を閉じる。そこここにモダンな言葉遣いを配置し、女主人公の青春期を描いている。会社や組合。学園闘争。そして主人公は魅力のない女性だと設定されている。いわゆるブ女だと。その女性がとる行動は性というものを越えたか、もしくは女性というものを個人的な思い入れで書いているように思われる。個人としての女性。三田地さんそのものの女性としての歩みだったかもしれない。

ただここで言っておくが、三田地さんは外見はごく普通であり、決して醜くはない。主人公のように外見に対するコンプレックスを持つような人ではないのだ。それではなぜ主人公をそう見立てたか。そこには謎があるが、三田地さんの含羞だと思う。本人に聞いて見なければわからないが、男性に対し興味しんしんだった三田地さんを想像するとなるほどなと思える。どうぞ買ってあげてください。

編集工房ノアから定価:本体2000円+税であります。どうか諸君よろしく!

by ningenno-kuzu | 2009-09-26 15:00 | Books | Comments(0)

小説『遊学三昧』<ある愛情物語> 杉本 利男著

杉本さんからいただいた2冊目の本になる。前も書いたが杉本さんはリップサービスをお気に召さない。とはいえぼくがリップサービスをしない訳にはゆかない。本はぼくにとって宝物であり、それを送ってくれた人はぼくの中では神様扱いだ。しかも自作となると言葉にしがたいものがある。その小説を良い悪いなんて評論家先生じゃあるまいし、ぼくの意にはそぐわない。ぼくがお偉い先生になる必要があるだろうか? そんなものないに決まっている。

主人公は宮里勝だ。ミヤザトマサルだ。ぼくはマサルを最初カツと読んでいた。だが、最終的にマサルだとわかった。宮里勝は沖縄出身の東京で大学に通う学生だ。沖縄には無理があるんじゃないかと正直思った。だが、ぼくの思うほど杉本さんは沖縄に通じていて、その土地をいろいろ知ってはいた。ただ主人公がある事情で沖縄に帰った時の会話が標準語なのだ。が、後半部は沖縄弁が出てくる。が、沖縄弁はぼくにはさっぱりだった。が、ある程度わかるようにはできている。その辺り、杉本さんは抜かりない。その辺り、杉本さんは試行錯誤したのではないかと思う。

この小説と並行してヘンリー・ジェイムスの短編集を読んでいたので、その違いには歴然としたものがあったのは確かだ。『遊学三昧』の場合、心理描写というよりも情景描写といった方が良いと思う。登場人物たち、特に主人公とその恋人である石川可能子にその描写はさかれるのだが、いわゆる心理学一般にでそうな心描写ではない。跋文では心理描写と謳っているが、ヘンリー・ジェイムスの作品とはかけ離れている。杉本さんの作品はリアリズムを追求しているはずなのにリアリズムが感じられない。これはどうしたことだろう。

それは過去を描写してでのことであって、杉本さんには罪はない。とはいえ歴史的にみるべきものがあるというわけでもない。そういう時代があったのだ、という懐古趣味ではなく、杉本さん自身の、作者自身の今があるように思えてならない。どこをとっても杉本さんで、悪人も杉本さんらしい悪人で、人柄の良い悪人とでも呼べるような悪人である。それはぼくが杉本さんに何度かお会いしていたり、電話でいらぬ用事で困らせたりしてわかったことで、作者人物が作品にかかわる重大性みたいなものを改めて考えざるを得ない。

まったくといって良いほどのプラトニックラブを恋人同士である二人が演じているのだけれども、作品の中にチラと見せるエロティスムには、ドキッとしたことを白状しなければなんならない。学生たちはまじめで友愛にとび、教授に見せる敵対的関係も最後にはわからなくなる。時代が生んだ杉本さんがそこにいて、どこを切っても杉本さんであって、その域を超えないことには不満があるが、杉本さんという人物が出来上がったのを見るには本書が一番向いているかもしれない。実際、杉本さんとこのサイトを見る人が会うとするなら、ぼくのいっってることが間違いないとわかるだろう。

定価本体1715円+税 永田書房から発売しています。ぜひ一読あれ。

by ningenno-kuzu | 2009-09-15 15:23 | Books | Comments(0)