川上氏の本を読むのは2冊目である。『乳と卵』、そして『ヘヴン』。どちらも女性の知り合いに勧められた本。もし勧められていなければ読んでいなかったろう。それは作品のせいでも、作者のせいでもない。ぼくは有名、無名にかかわらず本という媒体によるいわゆる読書が、自分が選ぶというようなスタンスをとれなくなった。それはぼくの生活態度のためで、あらゆる本の魅力が失せたためではない。ぼくは書き手でもあり、書き手であるがゆえに呪われた宿命に翻弄されつつあり、その状況を打破するためには、とりあえず、ただ漫然と生きることに慣れなければならないと自戒しつつある。
そもそも、この世のあらゆる図書、日本で出版されている本に限っていっても、そのすべてを読みつくすことなど物理的に不可能だ。ぼくが今まで選んできたものは偶然でもあるし、ぼくがある、ということにおいては必然かもしれない。本とはそんな出会いの連鎖で蓄積されたものだ。目的のない旅人のようなものかも知れない。単純にいえば、生きていれば本も読むこともあるということだ。
以前、ぼくの知り合いの本を取り上げたが、知り合いでなければ読むことも、知りることもできなかった。それは人間らしい、ごく人間らしいふるまいの一景である。正しさ、律儀さ、そんなものがもしかしたら人間にあったのかもしれない。人間に対する並々ならぬ好奇心がぼくを突き落とし、その中の一人に出会い、そうして好意的な感情のもとにぼくはそれら本を取り上げてきた。そこには人間としての反応しかないかもしれない。ごく穏やかな。しかし、ぼくは自分のために生きることに辟易としていて、知り合いであるがゆえに好意的に、いや、ぼくは創作物のすべてにおいて敬意を表するような人物であるのでどんな作も自分なりに楽しめて読めたのだ。
川上未映子氏はぼくとは無縁の人。知り合いでも何でもない。現代文学でそういった人を取り上げるのは初めてだ。だが、先のとおり、勧められた本ではある。人間として出会った本、人間から伝わった本。本書は後者だろう。ただやはりそこには人間が介在しているのだ。
『ヘヴン』はイジメを取り上げた書である。本作品を吟味する前に先にある事件、イジメによる自殺という事件のことを話さなければならない。事件は本書の発行後であり、中学生、小学生という違いはあるけれども、フィクションと事実という関連性の中から、創作するものとして考えてみたい。
小学生、その自殺はごく最近だ。ネットで調べればもっと詳しくわかるというか、ぼくの記憶を強くするが、ぼくはいつものようにあえて一回限りの本事件の、ネットでの記事の記憶からここに記すことにしよう。だから事実誤認もあるだろうが、それはぼくの創作者の態度であり、報道する側、いわゆるジャーナリズムとは一線をかくす。ぼくには世論を導く必要はないのだ。
では、ぼくの記憶より。小学生6年女児。お母さんのために編んでいたマフラーで首吊り自殺。カーテンレールにそのマフラーをかけ首吊り。お母さんはフィリピン人。お父さんは日本人のよう。首吊りしていた彼女はある漫画を描いていたそう。転校生が来て、その転校生に「友達て素晴らしい」みたいなことをその漫画で言わせている。父親は何度かいじめについて学校側に相談していた模様。いじめは給食中での無視だったとされているが、それ以上はぼくはしらない。給食を食べる時、席をみんなが(おそらく女性同士)囲んである中、彼女一人が、つまり一人で食べる格好。はっきり言ってぼくには自殺に至る、筋道がわからない。原因がわからないというか、ぼくには理解不能なのだ。小6だったぼくは、まず死という概念すらなかった。だから彼女を死に追い詰めた背景が見えてこないのだ。ぼくは小6の頃、自分はアンドロイドだと思っていた。人間という生き物ではないと。
ただ彼女の生まれ育った背景には、日本という国に外国人が多く流入してきたという事実があるだろう。今では外国人は珍しくはなく、ぼくの近所にはカメルーンから来た一家がいる。ただもし、彼女の住む地域が田舎であれば、現在といえども珍しいかもしれない。事件は実名報道され、市町村もおそらく報道されていた。ぼくが記憶していないだけで。神戸で起きた過去の小学生の自殺報道は実名報道はなく、そしてどことも詳しくは表記されていなかった。これらの違いが何を意味するのだろうか? おそらくネットが現代ではあるから、かりに伏せていても明らかになるものだから、報道する側がそれに便乗してそれら報道を執り行ったのであろう。ぼくはそういった報道を批判するわけではない。ただ現代という物がそのようなものだと認識するまでである。ただ一つ言えることはフィリピン人である母親が、日本語を話せたかどうか、また、職を持っていたかどうかだ。多くのフィリピン人の女性はいわゆる夜の仕事くらいしかない。ぼくの知っているシングルマザーのフィリピン人はラウンジみたいな所で働いてい、なおかつ昼も職を持っているみたいだ。彼女には中学になる娘がいる。ぼくの友達は現地で出会ったフィリピン人と結婚したが、日本語が話せない。外国人と結婚し子供をもうけたら、金銭面において余裕がない限り働かなくてはならないのだ。外国人が日本社会において。
差別がないといえば嘘だろう。日本人同士であってさえあるのだ。小学生で自殺まで追い込まれた彼女の耐えがたき生はどこから生まれて来るのだろうか? 本当のところをいうとわからないのだ。生と死は永遠のテーマだろう。もちろん永遠というのはぼくの中の形容詞であるにすぎないが、人類が絶滅するまでのことを考える暇もないしそれまで生きてないし、宇宙そのものがなくなることも鑑みて、ぼくは結論など急がない。
さて本題に入ろう。川上未映子氏の『ヘヴン』。いじめる側といじめられる側を描いた作品だ。こいう構図が作品を構成する上で必要だったのだろうか? もちろんそうだろう。言い換えるなら強者と弱者だ。この対軸が作品を書く上の必要不可欠な要素だったのだろう。作家という者は(ぼくもそうだが)作品を評されるのは良いが、物語の主人公なら主人公の名前を間違われたりすると多少、不快な思いになるものだ。しかしながらぼくのブログはたとえ不特定が見ようとも多数派ではないし、また、影響力もないことから、誤字脱字を含めた本作の読み違いに(作者が読むこともないという期待も含め)寛容であってほしいと願う。
ぼくはこの作品を一度しか読んでいない。そして読後、数日以上は経過しているので淡い記憶から進めなくてはならないことを明記せざるを得ない。繰り返し言い訳になるが、その点を強調しておく。物語の始まりは淡々と繰り返される暴力的なイジメから始まる。主人公のぼくがいじめられてい、その彼はそれを反抗することもなく受け入れている。そのあと彼の机に手紙が机の下に貼られていたか、中に入っていたか記憶はあいまいだが、彼に手紙が来るようになる。作者はここでイジメについて書かれたものではない、となぜかト書きを入れている。たぶん手紙が来た、その後に内容を書く前に書かれていたように記憶している。ぼくはまだ相手のわからぬ手紙の内容に興味を持った。だが、その手紙が来る、ということにぼくは興味を魅かれたといった方が良く、その手紙を記憶しているわけではない。いじめられる側のぼくに、ぼくはほのかな期待をそこから得るのではないかと、今になってそう思う。だからかぼくは気に入ったのだ、そこが。だがやがて相手が同じいじめられっ子であるコジマとわかる。コジマは女子生徒のいじめられっ子だ。確か手紙で会おうという誘いがあり、そこで会って初めてコジマだとわかったのだと思う。はじめは主人公であるぼくが、いじめっ子の誰かが誘っているのではないかと疑っている。だが、彼は状況が変わるなし、いってみようと決意して会うのだ。それがコジマだった。
イジメられてる同士がこうして会う、ということは何を意味するのだろうか? この出会いから手紙のやり取りが始まるのだが、そこからぼくは手紙そのものにあまり興味を抱かなくなった。その関係がだんだん手紙のやり取りのより、リアリティーが少なくなっているように感じたのだ。
(この続きはまた日を改めて書きます。まだ途中です。いやはや疲れます)
続きを書こうと思ったが、だいたいあらすじを書くような感じで進み、読んでいない人がでできそうなので(と、いうか考えて)巷でいうところのネタバレ(この言葉は好かぬ)になるので、あと少し書いて幕を引こう。
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