我々は生きているという。もしくは生きていなくてはどこにも存在できない。生命の不思議は科学では解明できないだろう。そこには哲学的な問いが備わっているし、その解決に向けた回答はどこにも存在していないからだ。
年齢というものがある。若い人、老いた人。おそらくここには違う乗り物に乗った者同士だといえるだろう。バラバラな乗り物に乗っているのだ。そこで交差するのは実際の乗り物の電車であったりする。
ぼくは生物学的に年齢を重ねた。いわゆる老いたのだ。その前身、若さというものがあったのは事実だ。子供でなければ大人になれない。この関係性は確固としたものだ。
生から死へ向かうこの方向性は誰もが平等にある。印象としての時間の経過の速さ、もしくは遅さはその時その時に感じることができるだろう。
そもそもだ。命はどこにあるのだろか? 人々に備わった命はいつかなくなる。その命そのものは何を意味するのか? それはおそらく人間という生き物が解明できることはないと思われる。
過去は遠くにあり未来も遠くにある。その遠さには我々はたどり着くことはない。過去にも未来にも。つまり我々は永遠にこたえを見つけることはできない存在なのだ。
我々は遠い過去と遠い未来を想って現在を生きることしかできない頼りない存在なのだ。いってみればパスカルのいう「人間とは考える葦である」という考えに検収することだろう。
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by ningenno-kuzu
| 2022-09-11 12:12
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