ぼくは最近は書いていない。そのうち書くかもしれない。僕の書き言葉は話し言葉に近い。僕はこうしてタイピングをしながら小さくしゃべりながらである。
芥川龍之介であっただろうか。夏目漱石の話を「先生はしゃべるように書くのではなく、書くようにしゃべる」とたしかいっていた。確信はないから詳しくは調べて下さい。
ぼくは中学1年生の頃、自分の声が誰にも聞こえないのではないかとなぜかしら思って、宮沢賢治の『春と修羅』という詩集の音読を繰り返した。空で覚えるほど読んだ。
なぜだろう。なぜそんな気持ちになったのだろう。誰にも自分の声が聞こえないという感覚になぜ至ったのだろう。
ぼくは書くとき先ほども言ったが、声を小さく出す。誰にも聞こえない程度にだ。だから僕の書くものは、ほぼ話ことばに近い。言文一致。言人一致。僕は言葉そのものといえるかもしれない。
ぼくのご先祖は漁師であったり庄屋であったりしているが、そのどちらも方言がキツイ。標準語と比べたらひどく汚いのだ。そのため時には僕は声を荒げるときにはひどく乱暴になる。
だからだ。僕は日頃において言葉を丁寧に使うようにしている。言葉は人、命そのものなのだから他人に対し攻撃的な言葉、荒い言葉は使わないように心掛けている。
自分は誰に対しても敵対的な気持ちはないのだ、ということを発信するための言葉を使うのだ。事実そうだが、時に僕はスイッチが入る。攻撃的になるときもあるのだ。とはいえ本質的には、
敵対的な気持ちはないのだ。それをわかってもらうには書き言葉と話し言葉の距離を短くし、日々考える限りにおいて繊細な言葉使いを心掛けるべきだろう。
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by ningenno-kuzu
| 2022-05-29 19:26
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