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ぼくは最近は書いていない。そのうち書くかもしれない。僕の書き言葉は話し言葉に近い。僕はこうしてタイピングをしながら小さくしゃべりながらである。

芥川龍之介であっただろうか。夏目漱石の話を「先生はしゃべるように書くのではなく、書くようにしゃべる」とたしかいっていた。確信はないから詳しくは調べて下さい。

ぼくは中学1年生の頃、自分の声が誰にも聞こえないのではないかとなぜかしら思って、宮沢賢治の『春と修羅』という詩集の音読を繰り返した。空で覚えるほど読んだ。

なぜだろう。なぜそんな気持ちになったのだろう。誰にも自分の声が聞こえないという感覚になぜ至ったのだろう。

ぼくは書くとき先ほども言ったが、声を小さく出す。誰にも聞こえない程度にだ。だから僕の書くものは、ほぼ話ことばに近い。言文一致。言人一致。僕は言葉そのものといえるかもしれない。

ぼくのご先祖は漁師であったり庄屋であったりしているが、そのどちらも方言がキツイ。標準語と比べたらひどく汚いのだ。そのため時には僕は声を荒げるときにはひどく乱暴になる。

だからだ。僕は日頃において言葉を丁寧に使うようにしている。言葉は人、命そのものなのだから他人に対し攻撃的な言葉、荒い言葉は使わないように心掛けている。

自分は誰に対しても敵対的な気持ちはないのだ、ということを発信するための言葉を使うのだ。事実そうだが、時に僕はスイッチが入る。攻撃的になるときもあるのだ。とはいえ本質的には、

敵対的な気持ちはないのだ。それをわかってもらうには書き言葉と話し言葉の距離を短くし、日々考える限りにおいて繊細な言葉使いを心掛けるべきだろう。



# by ningenno-kuzu | 2022-05-29 19:26 | Comments(0)
2006年に僕はパソコンを購入した。それに伴いブログも始めた。パソコンは動画編集仕様を購入。とはいえスペックは現在のパソコンと比べるとかなり低い。

映画を撮るために編集用マシンとして購入したのだ。なぜそんなことを思い立ったのだろう。それは本人でもわからない。

ぼくにとって映画とは? 幼少期、ぼくは家族で週末に映画を観ていた。家族で川の字に寝て、映画を楽しんでいた。母が無類の映画好きだったのだ。

ぼくは小学生低学年の頃、赤いカーディガンを母のお手製で編んでくれた。映画『理由なき反抗』で主人公であったジェーム・スディーンが着ていた赤いジャンパーから

想起されたものだ。赤は女子の色なので、僕は多少恥ずかしかったが、青年期には母の意が伝わり、自分で赤のセーターを購入して着ていた。

映画は夢、夢は映画。そんな感覚がある。現実が映画のようにあれば良い、とは『巴里を追いかけての』主人公。僕の長いと云えばいえる人生を振り返ってみても、まさ

しくすべては夢であった。正しいものはない、そして誤謬もない世界だった。あるようにしてあり、それがただ続いて行く。それだけであった。

いつか人は死に赴く。ビックバン宇宙論が正しければ、宇宙には始まりがあって終わりがある。それは人の生死に例えられるだろう。映画は始まり、そしてENDを迎え

る。すべての作品がそのようにある。つまり人間の生死とリンクしているのだ。生きることは死ぬこと。この不可分な生。それらを記録するのが、映画だ。

たくさんの物語、つまりたくさんの映画。それらは我々の一生を描く。もちろん観ている間だけである。およそ2時間程度で我々はすべてを観る。現実と対比された映

画。母はいった。「現実がひどすぎるから映画では美しいものを観たい」と。映画は我々を導く。虚構としての夢の世界へ。心躍らせる虚構としての未来。

なぜ未来が虚構だと云えば、未来は何も決まっていないからだ。決まっていないものは≒虚構だと思う。また記述された過去も現在もやはり虚構だといえる。我々は現実と

いうものを正しく捉えることができないのだ。

映画は虚構。虚構は夢。僕らは言葉以外でもコミュニケーションを行う。それは意識にのぼらなくとも音楽や絵画といった表現形式が存在する。それらは時に心を潤し、

時に心を和ます。僕らに備わった人間としての感受性。それらが藝術として人間の奥底に存在するのだ。生きているということのすべてをかけた芸術家たち。彼らの激烈

な生涯は我々の生きるを豊かにし、心躍らすミュージカル映画のような夢をみることになろう。

ぼくは2023年度にミュージカル映画を撮ろうと考えている。正直、それはどうなるかわからない。完成すらままならないかもしれない。しかしながら過去から現在を

経て未来に向かうのは確かなことだ。





# by ningenno-kuzu | 2022-05-05 11:34 | movies | Comments(0)

二元論の彼方から

久々のブログ投稿になる。世界はドンパチ。中東でもアフリカでもウクライナでも。安全なところから戦争反対という。それは良いこと? で、これら戦争で誰が悪いの?

人間そのものじゃん。人間の宿命。それが争い。小さな争いは個人間。大きな争いは国家間。どちらも戦争だが、国の戦争はたくさんの死者が出る。

人間の宿命である戦争。正しさの押し売り。我々こそ正義。そんなうたい文句は聞き飽きた。戦争に正義などない。言ってみれば戦争は悪ではない。

ただしだ! 人間同士殺し合いをするというのは見てられない。それを見ることは苦役でもある。それなら和平に向けてなすべきことをなすべき。

非難、制裁、これは火に油を注ぐことになる。こんな原始的な反応しかエリートたちはできないのか? 国家を背負った、国家の中枢にいるエリートがこんな原始的な行動で満足している。

戦争にどちらが悪いとは言えない。互いに悪口の応報。互いに正当性を主張する。そんなやり口は、安っぽいメロドラマをみている人には有効的だろう。

真に戦争を反対するのにはどちらかの立場につくのではなく、両方の意見を聞き最善の解決策を望むべきだ。安易な二元論の為に人々を引き裂いてはだめだ。そんなひどい人間の終末は誰も望まないはずだ。

生命を自分と他者、異国とその違い。対立しあう国同士の正当性の雄弁かつ欺瞞であるところの虚偽。それらは人間的で、誰も悪いとは言えない。争いは和平に導くことが、賢者の務めではないかな。冷静になって考えてほしい。

# by ningenno-kuzu | 2022-02-27 11:03 | ブログ | Comments(0)
ぼくは生命として生きている。そう感じている。それは何を意味するのか? 僕は広く人々と関わってきた。そうして互いに影響を受けあい今日まで来ている。

生きているという感覚。それは好ましくもあり、地獄を意味する場合もある。とはいえそれらすべては生きているということに集約されるだろう。

ぼくは心ときめかし、生を受け止めた。また煮え湯を浴びせかけられたように苦役に苦しんだ。それらは生きていると遭遇する雑事だった。ただの風。

生きにくいと感ずる風。生命を謳歌するごとき風。僕はどうも一人が似合う。女性の影などみじんもない。そう、ぼく自身、風のように生きている。もう僕には良いことも悪

いことも起こりえない。すべてはぼくにとって風だからだ。姿かたちの見えぬ風だ。ただただ生きているという感覚がある。ただしそれだけだ。

# by ningenno-kuzu | 2021-12-13 20:58 | ブログ | Comments(0)

哀歌15

その10代のおののきを見よ 悲しく沈んだ難破船 その深さはたとえようもない
 
涙は枯れた 繰り返し見る悪夢は消えた しかしながら身体に染み付いたその距離

人間であるとはなんだ 生命と死は何処にあるのだろう 考えること 空に見た

空白のシーツ 染み入った白に汚泥がしつこく呼んでいる あくまでも空隙とある

ぼくの体の一部がもう壊れている 修復は不可のなのだ 生と死はぼくの身近にある

歓喜を見た日 それは遠く離れた 静かに揺蕩い 干からびた身体が残るだけだ

あの日からぼくは死人だった すでに死んだ人間だった

それなのにぼくの喜びがあった それは幻想だろうか? 果たして現実とは何であろう

ことばは途切れて はるかかなたに飛び立った ただぼくは死を待つのみだと悟る

いつの日かこの死が詩となる日が来るだろう すべての存在が消え去るように 

こたえはどこにもない

# by ningenno-kuzu | 2021-10-03 16:40 | 藝術の光と影 | Comments(0)

自画像 paint by 魔ギオ


by 穴田丘呼