行動の修辞学

人の行動はまるで何かに寄生しているようである。自分の行動で有るはずが、何かの価値観、若しくは必要以上に自分から離れた存在者として振る舞っているようだ。そこには自分はなく、何の要求の下になされた行動で有るか僕には理解不能で有るが、自分でないものに取り巻かれているというのはわかる。

行動様式から外れるということ。それがいかにも個性的であると勘違いしているのだろうか。同じ行動様式に支配された人々は、ある種の社会性を持ち合わせている。これらは両極端に見える。どちらに信を置くか。この選択は無益だ。自分であることの言葉。自分らしさというものは、誰しも持ち合わせているのだ。

極端に見えるそれらは実は根っこは同じなのだ。

言葉は行動である。だが人々はそこから乖離という形で引き離されている。自分の中のこころにみあった言葉を彼らは知らない。それは何も多くの言葉を必要としない。自分がもらった言葉をギブバックすればいいだけの話だ。その多くはごく幼い時期に与えられた。その言葉を探すべく行動するのだ。それら言葉を探して行動するのだ。

本に書かれた言葉から自分の言葉を発見しそして見違えるような自己自身の行動を行えば、それ自身が真なりやといえる。それら発見が待たれている人々が居たら、自分から行動しよう。その言葉は伝わるのだ。

# by ningenno-kuzu | 2018-09-13 18:44 | 藝術の光と影 | Comments(0)

危険な世界

僕らは非常に危険な世界に住んでいる。それは普段気がつかないのだが、その危険性はいろんな犯罪を含めて我々の世界に点在している。その危機はやがて訪れるべく訪れるのだが、その危機に対して我々はなすすべは持っていない。
日々何気なく食べているものであっても、その危険性を問いつつ食べているわけではない。また飲んでいるわけでもないのだ。危機は弱いところに訪れる。それは身体的に弱い部分であってり、日ごろの暴飲暴食が原因であったりするが、そもそも其れ自体の食物に問題がある場合がある。

記憶に新しい殺虫剤を混入した餃子がある。また古い所では赤ちゃんのミルクにヒ素が使われていたりした。また盗難や事件事故は日本中を席巻しているかのようだ。それらは何もみなければ問題なく過ごせるのだが、身近に起こるとパニックになったりする。

こんな危険な世界は日々繰り返されている。そうして記憶の中から遠ざかってしまう。忘却の記念碑だ。

何時の時代かはっきりしないが、日本では(たぶん江戸時代だと思う)いつ誰が刀で切りかかってくるかわからない時世だったようである。別にこれは日本特有のものではないだろう。外国では似ていると思う。ただそんなことが習慣に影響した? トイレで大と小を一緒にするのは日本人だけだと聞いたことがある。事実はわからない。

僕らは平和を願うという。だが国内だけみても散々たるものだ。いろんな危険は潜み、時に顕在化する。

僕らが平穏な気持ちでおれるのはもしかしたら一人でいるときの、それもつかの間の時間ではないか? そう思う。

危険はいつでもあるがそれを意識せずにおれるということはそんなにないことだ。

危険は我々をいつでも狙っている。生きているからこそ狙われるのだが。生きているから危険を回避しようとする。そういう危険とのいたちごっこは永劫我々の脅威でありつづける。

# by ningenno-kuzu | 2018-08-20 17:37 | ブログ | Comments(0)

どんなことかな

なにかとせわしない。手にはスマホを持っている御仁。忙しいのだね。まいったわ。楽しみは妄想とは。

ごろりと転ぶ。枝が揺れる。僕のことはかまわない。こいつは死人だ。死人に口なし。

考えることはしない。無駄だ。待ちわびた。在りもしないことを。電車にはねられる人。自殺だな。2万人なら毎日
人が死ぬことになる。だが人口は極端には減らない。余剰人員だ。蟒蛇をそっくり闇の世界へ。

死んだ人は生き返らない。迷宮へと旅立つ。これだけ機械的に処理されると溜息が出るね。数、数字それらはぬくもりを欠く。

人には人の物語がある。あえて言わないが、生体はそんなにシンプルじゃない。

人のこころ。ここに在らず? 確かな手立てを講じて、確証を得たいだろ? そうじゃないか?

偉そうなふりをするな。幸せそうなふりをするな。楽しみは一時期。瞬間だ。あとは地獄の想いが募ることだろう。

明日、もしくは昨日。その順番で果てるのさ。ごきげんよう。

# by ningenno-kuzu | 2018-08-12 18:36 | Comments(0)

OKADA君

OKADA君は震災で母親を亡くした。阪神淡路大震災でである。彼はその当時、僕が勤める会社でアルバイトをしていた。

彼は確か関西大学か、関西学院大学に就学していたはずだ。そして震災の年にはすでに日本郵船に就職が内定していた。

彼は僕の仕事をしているブースまで来ると僕と写真を撮ってくれとという。そして第三者にカメラを渡し写真を撮ったのだが、あとで出来たのをもらい手にしてみると、なんと白黒写真であった。しかもそこには大者になるの(者)をボールペンで×で消して大物と書き換えられていた。なんとも大学生がそんな簡単な漢字を間違うとは…。

彼は母親のことをいつの日か言った。震災で亡くした母親のことである。彼は食器を用意しようとするとなぜ
かしら一人多く置いてしまうらしい。つまり母親の分まで用意してしまうのだ。簡単にそんな思いが消えるわけがない。

悲しくも多くを犠牲にした震災であった。

# by ningenno-kuzu | 2018-08-05 20:12 | ニュース | Comments(0)

いつのひか

イツノヒカ。事実と妄想を語ろう。事実は妄想に近し。妄想は事実に近し。強制入院させられるまでの奇行を語ろう。ここではないどこか。知る人ぞ知る事実。わきまえられた標語。

叶いもしない事実。叶いたくもない妄想。きれいごとでは済まされない妄想。どこへ行っても付きまとう事実。あるかないかの事実。もしあったら面白いといわれる奇行。

どんな風に世に出るかはわからない。すべてはフィクションのよう。そうだろ? 君待てども。

語りつくす。

# by ningenno-kuzu | 2018-08-05 18:30 | ニュース | Comments(0)
僕は長いこと働いてきた。これからも働くだろう。働くことで得る事のできる一番身近なものは、それはお金だ。誰しもお金が大事だ。母は命に次ぎにお金が大事だと言い切った。そうかもしれない。じゃあ僕は自分の命をも軽々しく考えている
人物だとしたら?

そう、そうなのだ。でも僕は現実を否定しない。お金が大事であるということも否定しない。実際において僕が今まで生きて来れたのもお金があったからだ。だがすべてじゃないだろう? それがすべてだと思っている人はいるだろうか。

僕は金儲けのために生まれたんじゃないぜ、と言い切れる。そんな道行きを暮らしてきた。非常に馬鹿な生き方だ。作家でいうと無頼派みたいなとんでもない人生を送っている。

僕は稼いだ金は使いきる。馬鹿なしょうぐんだ。それで自身が困ることになる。だが働けばいい。それだけのことだ。働けば得られるもの。だがお金があっても得られないものがたくさんある。僕の血縁者、それはお金が生かしたとしても、彼らは彼女らはお金で得られるものではない。

僕のこころをときめかさせた女性も、お金で買えるわけじゃないのだ。こころ深く望めば何がみえてくるだろう。それは絶望もしれない。でもね、どんな苦楽もおしなべて自分のこころを豊かにしてくれる。得難い記憶や夢の様な世界。

夜空に昇る月影。星々のイルミネーション。静まり返った街の灯。悩みや苦悩の日々をそれらはやさしく帳消しにしいてくれる。まあいいじゃないかと思わせてくれるのだ。

僕たちは日々を生きるとき、なにかを信じている。信ずべきものはもしかしてどこにも存在しないかもしれないのだ。でも何一つ信じられないとしたら、それはそれで不幸かもしれない。確たる証拠はなくとも、微々たる想いで僕たちはすくる時を感じる。そうさ、何事でも良い。自分の信ずる道を歩むべきさ。それはちょっとした闘争なのかもしれない。

でも自分の人生は自分で切り開くしかない。誰一人、自分の人生を歩むことが出来る人はこの世に存在しいないのだから。

# by ningenno-kuzu | 2018-08-04 19:20 | 藝術の光と影 | Comments(0)

僕のパラレルワールド

僕はあるときだ。列車で会社に向かう途中にうつらうつらとした。よくある通勤途上の睡眠だ。だがその時は違った。夢をみたのだ。

その夢は現実に通じていた。夢らしき何の感慨もない夢だったのだ。単に人が入れ替わるなりして、夢は続いた。それはほんの一瞬だったりした。

夢は夢なのだが、現実に通勤している夢を見たのだ。現実と寸分たがわぬ夢だ。ただその前後が違っていたり、登場人物が現実とは違っていたりして、つまりは少しずつ違うだけですべては現実様式だった。

そして僕はふと考えたのだ。この現実は夢と夢らしきものとの間のちょっとしたパラレルな世界を示しているのではないか? そういう疑念がわいてきた。その僕の認識はおかしなものかもしれない。でも現実と夢との間にわずかな破れが生じて、僕は違う現実を見たのではないか? そう思えた。

その世界は誰でも見ることは不可能な世界。パラレルワールドだ。違う現実が有るということ。そんな僕のふざけた想念がそういう考えを生んだのかもしれない。だが直ちにそれが間違いだとは言えないのだ。少なくとも僕は夢はただの夢だと断言できない。が、しかし、その夢をもう一つの現実であるとも断言できないのだ。

そうは言ってもそれらを証明することは不可能だ。逆もしかりなのだが、そもそも逆くといえるほど確証もない。あやふやすぎて申し訳ないのだが、それくらい僕の中の印象としても確かではないのだ。だが、その世界は例えば物質と反物質に置き換えられようし、また比喩などで使われるような、ポジとネガなのだ。

こうしてあやふやなまま筆置くのもなんだが、めいめいでそういうことを考えるきっかけにしては欲しいと思う。

正しさ、もしくは事実というものは積層された記憶のひとつかもしれない。僕ら人間の記憶媒体とは限られた反応にみられる人間の限界だろう。僕らの見たり聞いたり感じたことはその記憶術にいよって限定され規定され、制限される。実際にあったと認識されるには一体どんな知性の持ち主に許されているというのだろうか。

僕がここで集約すべき言葉を投げかけることが出来るとするなら、人間は生きていると色々あるね、ということくらいだ。つまり僕のような考えを持つ人物も現れるということ。そこに正しさは持ち合わせていないわけだが、夜長の夏に思い浮かべてみるのも良いことだろう。

# by ningenno-kuzu | 2018-07-30 21:06 | 藝術の光と影 | Comments(0)

灼熱の季節

ずいぶん前から疑問を抱いていた。夏の暑さが異常であると感じつつあったのだ。それは僕の大阪時代にさかのぼる。1983年あたりだ。大阪の暑さはある意味において異常だった。その当時扇風機一台で夏を過ごしたことを思うと、ある程度、夏の暑さを引き算する必要があるかもしれない。

僕はその当時、テレビすらも持っていなかった。必要がなかったのだ。ただ体感温度として、夏の暑さを感じていた。

今日日の最高気温は40度に達するという。この数値だけ考えても異常である。猛暑日というフレーズが聞かれるようになったのもそんなに昔じゃない。

単に気候の問題ではなく天変地異が起こりつつあるのではないかと思えるほどだ。ヒートアイランド現象と言われて久しいが、大阪の中心部は、その名の通り煉獄ともいえる灼熱の季節であった。エアコンが普及していて、屋外に出される熱風は市街地の気温を温度計で計測される以上に暑かったろう。


延々と放出される燃焼によるガス。それらで地球を包み込み、逃げ場のない熱が地球上を席巻する。車やエアコン、ゴミの焼却施設、工場群は、熱風をともおなったガスを毎日排出する。その量は考えられないくらい大量であることだろう。

CO2削減が囁かれている。でも其れでは間に合わないと思う。このまま破滅への道を人類は歩むのかもしれない。もうこの産業革命から始まった地球破滅のシナリオは確固としたものになっているのかもしれない。

人類にはもう未来は無いのか?

# by ningenno-kuzu | 2018-07-16 08:57 | ニュース | Comments(1)

吐息―ブレス

物理的な距離を計算してみる。それは時代の要請じゃない。生きていることそのものを感じる時だ。心理的な距離や物理的な距離。そのこもごもの距離はどうして生まれるのだろう。動物である限り生存を目指すことになる。自分の生存すべき時系列でもある未来志向でその距離を分断したり、近づいたりする。

僕ら生体には理解できない行動様式があり、それを無意識裡に日々おこなってるのだ。それを日常ともいえるが、その行動パターンは、結果を導くことにはなるのだが、人と人とのつながりは見えてこない。その距離は縮んだり伸びたりするようだが、恐らく結果は人の性格や特性、そのほか意志の力で初めから決まっている場合がある。

人の一生はまるで性格が決めるかのようだ。その恐ろしい結果論は、人間の動物で有ることからいささか外れているのだ。もしくはそれは人間の個体の特性ともいえる。その特性は一般的な生命の在り方から外れているが、そういう個体で有ることの究極の形でもあるのだろう。

識別できる個性は、その指向性の鋭さによって一般的なありようから外れてしまうのだ。彼ら彼女らはアウトサイダーともいえる。

吐息を感じることのできるレベルにはある大きな障壁がある。物理的な距離はもちろんのこと、生きることと相対したあいなれない関りと生まれもった性格により初めから何もかも決まっていたような結果がもたらされる。

孤独な人に共通したそんなありさまとでもいえる、まったき絶望の起立した個性、自分がどこにも存在しないという壮絶な意識の中に埋没することはない。ただ一人であること、自分の考えがどこの世界にもないということ。ひらひらと舞うスカートが、誰かのものであり、自分とは関係がないということ。吐息はどこにも聞こえなということ。

人と人の間にたって、その空間を行ったり来たりすることはあっても、決してとどまることを許されていない辺絶の頂に存在しているかのようだ。

# by ningenno-kuzu | 2018-07-08 09:40 | ブログ | Comments(0)

天才ここに在り。

人と人は違う。同じような風体をしていても同じ国籍でも違う。僕の能力を凌駕する人はいないように誰しも違いがあり、彼ら彼女らにはある種の特別な存在者として存在している。ただその違いが天才と凡人を分ける。だがそこには正しいさや、その能力における優劣の差はない。いってみれば価値観がどこに存在するかによって人々は何者かに分けたがる。

そもそも人間の価値とはなんだろうか? 僕らにできることは生きることのみだ。その間に取り交わされている営為は、誰しも似ている。ただその取り組み方が違うだけで、僕らは似たような人生を歩む。基本的に似ているのだ。それらはすべての人に平等で変わることはない。だが人々は何らかの優劣でもって行動している。人が人と接するとき、その優劣や好みによって違ってくるのだ。その違いは決定的だ。わずかな違いがその人の行動原理を支配するのだ。

僕は何らかの天才であろう。それは誰にもわからないところでひっそりと咲いている。目立つ人間が天才で有ることはそうそうない。また社会的な成功が天才とリンクされているわけではない。誰しもが天才と呼んだビンセントヴァンゴッホ。彼は生前一枚しか絵は売れなかった。それも弟のテオを介してである。テオは画商をしていたのだ。彼からの援助がなければ、ひょっとして現在のゴッホはいなかったかもしれない。ゴッホの絵は今では何億円もする。極貧の中でゴッホは迷わず絵を描いた。この天才は異常だとされるが、彼の残した絵画は恒久的に価値を持ち続けるだろう。

天才はそうして天才だと認知されるには何世紀もの年月が必要な場合もある。いやむしろ天才こそ現代には成功を収めることはないのかもしれない。

激烈な天才的思考。それらはどこに注がれているのだろうか。まだそこには誰もいないだけで天才がいるがいる限り、その天才の系譜を遠い未来に届けることになろう。

# by ningenno-kuzu | 2018-07-01 11:20 | 藝術の光と影 | Comments(0)

自画像 paint by 魔ギオ


by 穴田丘呼