人気ブログランキング |
宇宙というものの謎は深まるばかりだ。宇宙という存在は我々と関りがあると見ることはできるが、それがなんであるか解明することは不可能であろう。その時代時代の観測装置の我々に与える値の解析が宇宙を形作る。それは目で見ることのできる範囲内で収束するが、想像なり妄想なりでその可能性を仰ぎ見ることも可能であろう。

宇宙は巨視的だ。それは我々の持つスケールではそうとは言える。けれどもその大きさは、我々の大きさの概念であり、比べることのできる何らかの対象があれば宇宙は微視的にも見られ、突っ込んだ意見では微視と巨視のリンクが我々の世界観を世界線を記述できるのかもしれない。

大きく、小さく。その極限は我々には見ることは不可能なのだろうか。だがそれらを知ることはできるのだ。想像力があればその点を強調できる。うごめく素粒子が例えば我々人間の行動であると記述できないわけではない。それら微視を個人に置き換え、巨視を国などの大きな枠組みでとらえることも可能だ。

であるけれども、地球があり、宇宙があり、その他恒星や惑星が宇宙になかにあるとするこの世界は、何か意味や意義が含まれているかに見えるが、実際のところ一切の意味や意義はないのかもしれない。そこには空虚な物質で満たされていて、偶然必然を問わずに存在するから存在するという堂々巡りの無意味な世界が広がっているにすぎないのかもしれない。

そこに意味や意義を問うとき、我々の生命を問うこととほど近いことになるであろう。生きることと宇宙が存在するということが、どういう関係性の下で繰り広げられるか? これら不思議はどんなに科学が発達しようとも解決されることはないであろう。この問いは世紀をまたいで問い続けられるのだろう。

# by ningenno-kuzu | 2019-05-12 12:18 | エム・アイ・ケイ・アイ理化学研究所 | Comments(0)

結果、結論を急ぐ前に

結論を求め結果を見ることになる。スポーツと違うんだから結果は意味がない。その過程にこそ意味があり、結論、結果はそれらの付随物だ。そういうものさ。人が絡む何らかの現実は大きくは自分で作り上げた幻想さ。その中に多くの主人公が存在していようとそこにみられる物事は自分が見ている世界であり、多くに絡んでいるかに見える人々は、そこにはいるがそこには何の力もないストレンジャーさ。そういうものじゃないかね?時間はそこにはなくただただ生命体としての活動がなされる。そうして歩き、招き、どこかに行く。僕らは常に動いているんだ。つねに。
# by ningenno-kuzu | 2019-05-03 17:12 | ブログ | Comments(0)
人間には心というものがあるという。それをどうしたら見ることができるだろう。それは形あるものなのか? それともそもそも見えないものなのか。

人として生まれた限り人としてやるべきことに人は気づくことができるだろうか? それとて形があるとは限らない。つまり見えないのだ。

視覚に並ぶ感覚域。そんなものがどこにあろう。メシイに人は何も見えない。それ何の我々はその人の感覚を思い入れることができない。心はあるのだから想像はできるはずだ。

問題は人間存在だ。この生き物は絶えることなく何万年とある。そうして進化はもう途絶えたという。この生き物にこころがあり、それを使って一番最高な形のありようを目指すことはできるだろう? できないか?

僕たちは伝播するこころの域を持っている。そんなに違わない心性を持っている。負も益も我らにある。かなえられることのない希望や夢。それらは一陣の風となり、作られた演目を装う。

当たり前のようにして僕らは街を歩いているが、それとて確実な道行きを歩んでいるとは言えない。とりあえず毎日歩く道を歩いているだけだ。またそれはそのように見えているだけだ。

夜風。潮のにおい。かぐわしい。心が落ち着く。魚から足が生えて、陸に上がった人類。猿から進化したという人類。そうして果てた人類。

いつか君よ。真夜中に空を見上げて星を見たまえ。

# by ningenno-kuzu | 2019-04-30 18:43 | ブログ | Comments(0)

みうジック

# by ningenno-kuzu | 2019-04-28 19:43 | music | Comments(0)

どーがしましたか?

# by ningenno-kuzu | 2019-04-27 17:19 | ブログ | Comments(0)
労働というものは社会を形成するところの社会参加だと思われる。この国を形作っているのは、それら労働の質であったり形態であったりするだろう。そんな仕事に対して僕はあまり肯定的になれない。仕事が成す形になるべきもの、形になったものへのプロセスに対して僕は懐疑的なのだ。

仕事が作り上げた現代は非常に便利だし快適でもあるし生命を育む上においてもごく出来がいい。だが僕は仕事そのものに意味や意義を喪失している。

働くものは年齢は決められている。一般的な場合だけど。会社は職務と関係ない学歴を望んでいたりする。また経験はたいして意味のないことなのに経験者とくる。

つまり会社という単位で構成された労働者は、そうしたどうでもいいことの事象に絡められてその労働に就くというわけだ。そうして労働は延々と定年か会社がつぶれるまで続く。転職しまた働き、そしてまた転職するか、延々と同じところで働く。

労働者の意味なき振る舞いは、金品を得ることができる。ただしそれらはやはり無意味な営為なのだ。社会性を持った人間族が選んだ労働の対価は、物質として僕たちの目を塞いでくれる。とめどなき工程、肯定。

働くことは現代を作り上げることだといえるだろう。僕は現代に疑念があるのでことは単純には行かない。労働で得るものは多くは金品だが、その得るべき内容、つまり仕事には僕は辟易としているのだ。

生きることと仕事をすることとほぼ等しい関係にあるのなら、僕は生きることに積極的になれないというしかない。仕事ができるとかできないとか、そんなことは僕にはどうでもよくあり、会社で仕事ができるという評価はバカらしいとさえ思われる。だがそこにしか自分の価値をはかることしかできない、というのはそれはかなり悲しいことだ。

# by ningenno-kuzu | 2019-04-06 07:34 | ブログ | Comments(0)
代えることのない圧倒的なボリュームである事実という名の我々への回答は「我々はこの世界に生きている」ということだろう。だがその生きるとは? この疑問は幾千年幾万年と形を変えながら我々の生きている上での命題となり、その命題を解くかのようにしてその時代性を受け継いだ価値観を多数生んできた。

地球上の生命の誕生については、奇跡的というしかない。

時代は変わるというが何が一体変わってきたのだろう。進歩をそこにみる人がいると思うが、進歩的なモダンなものというのは、たいてい過去にあった技術を援用しているものであるだろう。僕はそこに進歩はみない。古人のいうところの「この世界には何も新しいものはない」という考えに僕は賛成だ。

人類史というものがあるのなら僕はそれらをうまく運用できないだろう。事実の集積が史実にあるとして、そこでできあがった世界はもう個人が知覚するには限界が存在し、正確さを欠くちょっとした妄想となってしまうだろうと考えられるのだ。歴史の正しい認識は人類にはもう不可能で、もっと不可能なのが、なぜ人類が生存し生存し続けているかということの意味をどのような形であれ手に入れることはほぼ不可能だろう。

人間の営為に意味付けしたり、人間の生きるに哲学的な問いかけを求めるのは、今では陳腐なものであると解釈されることでもあるだろう。

それでも人間は生きている。

僕は現存在に対してとても不思議な感覚が沸いている。なぜ今なのか? という疑問がそんな感覚を生んでいる。僕に死後があるともないともいえないのだ。それは死後の世界の話ではない。僕が死んだ後に何を見ることができるか? 想像でもいい何らかのもの。自分が死ねば世界はなくなってしまうのではないかという疑念がある。この種の考え方は僕のオリジナルではなかろう。とはいえこの不思議は、宇宙の物理的解決よりも難しいとさえ思われる。

延々と問い続けて何らかの人類への手引書を僕は書くべきかもしれない。だがそこには過程はあれど絶対的な正解はないということだけ明言しておこう。





# by ningenno-kuzu | 2019-03-23 18:12 | ブログ | Comments(0)

パラノイアとして

 僕は長い年月を費やして逡巡してきた。それはおそらく二十歳の頃からであろう。詩人や作家という存在を神格化させていて、自分という存在がそのなり手に相応しいかどうか考えあぐねて過ごしてきたのだ。これらを時間のロスとみなすか、そもそも僕にとって必要な行為であったかどうか、それを知る手立ては今のところない。

僕は考えるということに時間を惜しまなかった。考え書き連ね読み返す、という行為を延々と続けてきたのだ。そこには正しさはないだろう。誰にでも通用するマニュアルはそこになかった。ただ確かなことはそれが自分らしい行為のひとつだとはいえることだ。

僕みたいに飽きやすいタイプが、それら年月を費やし、ちょっとした言葉の羅列をものにし、大きくは小説や詩に変換できたことを思うと、無為な行為とは言えなかったと思う。だが先のように万人の物ではないのは確かなことだ。僕が書くことと考えることをほぼ同時に行えるようになったのもそれらの年月が与えられたからであろう。

僕はそれらを誰かに要求されたわけではない。自ら進み出て体得した行為だといえる。だから僕には誰一人、現実生活において師といえる人は存在していなかった。自分が考えその考えを記録し、それを自ら読み返した。小説の類は誰彼となく見せもしたし、読んでもくれた。とはいえ書く上においては誰一人、僕に享受すべき対象はいなかったのだ。それを孤独といえば孤独だし、孤立といえば孤立だった。つまり孤立無援であったことは間違いはない。

ただしその傾向は僕を豊かにしたのは間違いはないだろう。つまずき転び、立ち上がり進んでゆく。これらの繰り返しは、第三者から見たらちょっとした悲劇かもしれない。僕が求めさすらったものは、僕でしか認識できないような高みにあった。僕の道化は人々を苦笑させるかもしれないが、見事に起立する芸術家を生み出した。徹頭徹尾その信念といえるものはまがうことはない。もちろんそれも正しさを優先するのではなく、自己自身であるという記録されるべき対象物である。

「芸術集団パラノイア」という目に見えない団体は、もうかれこれ創立20年にも及ぶ。その頃のメンバーの多くは、どこにいるかさえわからない。それぞれがそれぞれの立場で生き続けているだろう、という想像はできるが、それは実際のところとは違っていることも僕には理解できる。

また昔からのメンバーとまったく繋がりがなくなったわけでもない。ただし彼らと何らかの認識で一致しているとは言いがたいのも確かなことだ。そこには始まりもなく終わりもない、何らかの方向性を持ちながら四散してしまったことであろう。パラノイアの括りは大道を見るではないが、大まかであり、現代の資本主義文明とは、ちょっとした乖離がある。人が目的を持って集まるには、その乖離は求心力に欠ける。ただしそれだからこそ破綻もなく、生命の許す限りの大きな枠組みの中で、どこかで花を咲かせているのだと思う。

そんな僕らの幻想は、立ち抱いた心根に深く刻まれることだろう。ただそれが唯物的な目に見える形になりえるかは不明だ。稀代まれな科学者や哲学者が、この時点に歩み寄り、なんらかの歴史的世紀へと引き続き循環するエネルギーを見出す場合もあることだろう。ここで僕の営為が映画という形で表現されたとて、それは芸術の一端を語るだけで、それがすべてではないと認識していただきたい。その提出の仕方は異端であるけれども、深く根付いた映画愛と僕のセンスと、そのセンスの中にある深い憧憬、そして見まがうことのない現実との共同作品となるであろう。

人間という生き物に与えられたチャンスはそう多くはないと思う。またそれらの中にある価値概念は、やはり個別的な計らいの下で記憶すべきかもしれない。僕が映画を監督として撮影に及ぶということは、何も奇特な行為ではないと誰しもが納得する方向性で僕は撮りたい。そこには資本主義の価値観をある程度導入するしかない。ありとあらゆる芸術活動には、縁があるないにかかわらず、経済の問題が存在する。であるのならその点をスマートにクリアして、世の中の享受すべき対象といかばかりかなる必要もあることだろう。

人の世において表現方法と手段は、過去の連続であることだろう。その過去はあいなれない現実認識と平行線ではいけないと思う。そこに込める物事は、峻別された特権階級の独り言に終わってはならないのだ。まるでπ中間子のように、陽子と電子の間を結ぶ自由な物質であるべきだ。行きかう人々、そこに集合体を見るだけにとどまらず、そこに敢えて座し、そこから見えてきた現実というバイアスを拡張して、未来に結びえる新しい価値概念も含意すべきかもしれない。

僕ら人類は目新しいことで生存を続けてきたわけではない。衣食住ではないが、その基本的なスタイルを変幻させつつ生きてきたのだ。それらの個々の内容は違っていても、我々の心に深く刻まれるものは、本質的には何も変わっていない。それを新しい時代とされるものからビジョンを傾け、未来につなげるすべを藝術というものは持っている。

人の生涯に喩えられる藝術的な物ともそれらは分け隔てがあるとは言えない。それだけ人間の生きるは、煩雑でもあり、共通する確かな手立てが存在するのだ。

人の生きるに求めるなら、総合芸術といえる手法を使わないわけにはゆかない、と考えだしたのは、2000年前半のことだ。ただそこに至る経緯は複雑ではあるが、僕が個人的に言いえることは、そこにたどり着いたのは自明のことであるということだ。やはりここでも正しさは強調する気はない。

映画はすぐそこにあった。それがもっとも必然的な解答であろう。水や空気を摂取するように僕の眼にそれらが存在していた。それらは確かな存在者だった。人間が享受すべき対象がそこではありのままに描かれていた。人間の本質的側面がいろんな形で存在しえるということをそこで学んだのだ。

僕はそれらをギブバックする必要があったというまでのことかもしれない。つまり自分が生きているということを感じるためのひとつの行為だともいえるのだ。

みなさん、長く書きましたが、僕の必然が、あなた方のもとに届きますように僕は願ってやみません。現実はひどすぎます。だけれどもそれらを改変することはほとんど不可能でしょう。けれどもそこに座しないというスタンスを少しでも多くの方と共有できるのなら、世界はちょっと変わって見えるかもしれませんね。



# by ningenno-kuzu | 2019-03-10 15:46 | 藝術の光と影 | Comments(0)
生きている人間に平等にあるのが、生と死といえるだろう。なのであればこれこそが人間本質の命題ともなろう。であるけれども、僕が見たそれら問題は、なぜかしら軽やかだ。僕自身何度か死ぬような目にあったが、そこに(自己自身において)ネガティブな感情は抱けない。ただ自分の周りに若くして死んでいった者を見て、僕自身に衝撃が走らなかったといえば嘘になる。

生命の神秘。それらは解き明かされることはないだろう。そのことは僕にはわかりえることだ。ただ生命と死という関係の上に僕は通常と違う印象を持っているといわざるを得ない。僕自身が、僕が死ぬことをさして恐れぬというのはなぜだろうか、と問うことにだけその意見は忠実にはなく、生と死という関係則が僕にはまるで天地創造との違いを見出せぬのだ。

生きているということに対し、僕は一つの宇宙をあてはめる。宇宙がなぜ人の生きると関係を持っているのか疑問に思う人は沢山いるだろうが、生命の終焉は宇宙の終焉とリンクしているようにしか僕には思えない。人の死がイコール宇宙の終焉であると、そんなバカげた観念を本当に思い浮かべるのだ。それはもしかしたら事実かもしれない。ただそれを証明できる物理の方程式はない。

生きていること、それは天地創造だ。それはなしたことのすべての事実に起因する。がしかし、生命の問う自意識は、消えてなくなったとしても、それはそもそも個人の世界であり、集合された人間存在とまた違うものであろう。死は世界を葬り去るのだ。たった一つの世界を。

僕がみる宇宙の時空空間は、一つの閉じられた塊とみる。そこからの広がりは、同じところを通過するということを意味している。だから無限に見えるが、本当は有限なのである。また人間の持ちえた時間の観念を使って説明すると、始まりと終わりが同時に在るということになろう。人間は観念として時間を使っているが、実際にそんなものはなく、一枚のネガフィルムに捉えられている。

それら時間の有効的な使用の仕方は、在ることと変化をそこにみることで保持できることだろう。有機体の変化は同一方向に向いている。しかもそこには避けがたい死が待ち受けている。であるけれどもそれらも、存在としての意義を何も奪うことはなく、しかも尊厳さえギブバックしてくれる。

であるけれども、生命の不思議は誰も発見することはないであろう。何も分からないまま人類はこの世界から立ちさるのだ。

# by ningenno-kuzu | 2019-03-01 13:26 | ブログ | Comments(0)
個人主義的な問題と実際の個人的な生命の問題は異質な物であろう。言いたいことをいうということが自由であるかのように見えるが、そこに個人の意見がなければ個人の意見とは違ったものになる。そもそも個人と大衆の意見は違うし、また大衆というものなど存在しない。大衆という名詞は現実にあるところのものを捉えているかに見えるが、大衆という力動は個人の集まりというより、自分の意見を持たない日和見主義に多くみられる。

自分の意見というのは正しいという概念とまるで違う。端的に言えば世界に一つしか自分の意見は存在しいない。そこに多くの意見が含まれているように取り扱うのは危険だ。自分の意見が個人的な物であるということは別に問題でもないということを知る必要がある。そもそも自分と同じ意見などないし、せいぜい同じように見える意見が存在するだけで、その実、違ったものである。

では個人の意見があるということに対して、発話者は恐る恐る発言することになるかもしれない。だがそもそも違うということを知っていれば、その発言も有益であるとわかることだろう。なぜ有益かといえば違う意見を他人も持ち合わせることを知っているからだ。それを知っておれば他人の意見を聞くことができるというスタンスで物事に向かいあうことができるからだ。

自分の意見は個人的であり、しかも誰とも違っていて、他の人々の意見が自分とは
違うからにして他人の意見を受け入れることができるのだ。つまり自己自身が強く祈念してそうあれば、他人を恐れる必要はないであろう。ただしそのバラバラな意見たちはある種の新しい概念を持ち合わすことが出来る。新しい価値観の創出だ。だから自分の意見が頼りないとか、間違っているとかいう事はそもそも問題にすらならない。自分の意見が正誤表であらわせることなど意味がないことなのだ。たった一つしかないということがわかっておれば、そんな迷いもなくなることだろう。

ここは調和と多様性の人が生きる上で必要不可欠な創造的な、まるで三度の食事のように生きて行くのに必要なありようが併記される。自分の意見があるということは、つまり自分と違った意見があるということと同義であるのだ。

いろんな価値観が備わるにはそういった自己自身の認識が必要不可欠だ。自分を強く持つことは相手を否定することではない。相手との違いを知ることだ。そこからはじめて恒久的な人類の目指すべき道が見えてくるのだ。

人間の戦いに言語学的なチョイスをもたらすことはそういう意味では有益かもしれない。命の値段がいくらになっているか知らないが、21世紀という現代でもスーパーの大安売りを続けているようだ。

命というのは決して大切なものではない。けれども自分が自分で在ることの要請は命なしには語れない。

# by ningenno-kuzu | 2019-02-06 17:13 | ブログ | Comments(0)

自画像 paint by 魔ギオ


by 穴田丘呼