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自著を語る『青の時代1985』より、「わたしはウサギ」(穴田丘呼著)

まずこの作のタイトルはぼくが付けた訳ではない。命名は岳真也さんで、岳さんの手によるものである。当時、ぼくはいろんな意味で若かく、この一点を腹立たしく感じていた。タイトルが変わると基調が変わるので、ぼくは岳さんに良い印象は当時、持てなかったのだ。掌編でもあるし、その短さの中で語りえるすべてが、タイトルを含め依存しているとぼくは掌編を編むとき意識していたのだ。わかりやすくいえば、短い作品はすべてのパーツが、一体でもあるということ。一文字違うだけで、その作品は変わるということだ。実を言うとラスト5行くらい、岳さんの手により削られている。この点は今ではどうだろうとは思っている。つまり、岳さんとの共著という感じに仕上がっている。編集サイドと書き手のいまでいうコラボレーションということになろうか。岳さんは非常に文章がうまい人で、現在、歴史もの、時代物を書かれているが、作家というよりもライターみたいな仕事をすれば、たいていのことは出来てしまうと思われる。でも、岳さんにもプライドがあり、小説家として生きるというか、貫くというかそんな覚悟が最近の岳さんをみていて感じる。いつぞや、評論家を殴りに行った、という逸話を聞いたような気がする。その当時は純文学畑の作家だったのだ。でも、加齢とともに歴史に目覚め、もうかれこれ10年くらい時代物に取り組んで入れれるようだ。そんな岳真也さんにこの度の本の跋文を書いてもらい、岳さんにはいろんな意味で感謝している。ただ、本作品はぼくの性格を反映するものではなくなった。だが、こういうあり方というのは、業界では当たり前なのだろう。ここで言っておくが、ぼくが付けたタイトルは「できそこないのロマンス」であった。そのタイトルは、J.Dサリンジャーの短篇集に入っているタイトルから頂戴した。それを知ってか岳さんがタイトルを変えれれたのだろうか? それは知らない。どちらにせよそれは「えん」に掲載され、その雑誌をいろんな人に読んでもらったのだが、このフィクションがぼくの一部、もしくはぼくを取り巻く環境、ようはぼくのことを語っている、ように思われた人が圧倒的多数だった。また、主人公が若い女性で或わけだが、その女性のシーンがなければ、もっと良かったのに、と、意見される人もいた。つまり、共感するんは自分というものからかけ離れている、と感じたのだろうか。というのもこの作は、女性向きで、もしくは本が好きなひとむけであり、主人公を比較的若い女性にしたのも、その点を鑑みていただければ良いと思う。ただ、おとぎ話の部分。主人が語って弟に聞かせるおとぎ話の部分は、書くとき、最初に思いついた。そもそもおとぎ話というのは現実の反映されたもので、必ずしもこども向けではないのだ。対象がおとぎ話はこどもであったとしても、大人の世界を覗き見る機会が、おとぎ話の中にあるのだ。主人公の女性はある種の現実を抱えていて、それを昇華させたものが、ぼくが描いた作中作にあると思う。・・・のような世界があると。また、主人公が語ったおとぎ話は、読んでくれた人には大好評だった。こういう作り込みはが受けるとはぼくはまるで無関心だった。だが、似たような作をこれから書く事は無いだろう。ただし、創作ノートにある、この作が見つかれば、どこかで発表するかもしれない。また、この作の岳さんによって削られた部分は、ぼくの正確を反映したものとなっている。まじめに書いているもの、真面目に捉えられるものを書くと、ぼくはどうも崩したくなるのだ。シャイな性格がそうさせるのだ。もしかりにどこかで「できそこないのラブロマンス」を見かけたらそれは、原本ですと言っておこう。諧謔とでもいおうか、含羞とでもいおうか、その作はラスト5行くらいは、ふざけたようなラストになっている。書きながら歯が浮いてきたので、そういう結末を選んだのだが、岳真也さんが、これでは良くないと思われたのは確かで、すんなりと掲載されていたら、読み手はおもわずなんだこれは? と思わずにはおれないだろう。だが、そういう作は珍しいと思うので、いつか発表したいなと。ただし創作ノートをあさるほど時間がないので、いつのことやらということになる。また本作は描写するべき弟を主人公が描写する格好をとった。ぼくが描写、つまり神の視点とでもいおうか、うまく書く必要がない、主人公の語るおとぎ話を、その語りをメインにしつらえて余分な描写を避けるために、主人公は弟を描写また、弟の発言を一切、おとぎ話を語っている間は主人公に語らせた。つまり省いたのだ。また、おとぎ話は鉤括弧を多用して、その話を進めた。それは 故 北杜夫さんから多くを学んだ。といっても北杜夫さんの作品が鉤括弧が多いからというわけでなない。ある作品がそうで、その作からだけ学んだのだ。どちらにせよ、「わたしはウサギ」は巷では見かけないだろう作であると思う。掌編であるが、視点はしっかりエンディングで結ばれている。ただし、そのラストは削られているというのを忘れずに記載しておこう。
by ningenno-kuzu | 2012-02-11 11:49 | ブログ | Comments(0)

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by 穴田丘呼