『青の時代1985』適当な紹介。誤字あり。

「雨の降る日と雲の上」はネット上にあるようなどしゃ降りの雨の日に結婚式を挙げた夫婦の話ではない。冒頭にあるような「一九九五年の大安の日に、それもどしゃ降りの雨の中で、二人は結婚式を挙げた...」にみられるような事実は実は存在しない。まったくのフィクションだ。ただ、一九九五年が意味があるのは致し方ない。いわゆる一九九五年以前に書かれたものであり、未来というものをねつ造し、しかもその未来が実現することはないという確信のもと書かれたものである。「二十一世紀文学」に書いたものであるが、その初出では中略になっている部分が見つかったので、この度が完全版である。幾人かの人に感想を聞いたが、この作がループ小説だとは一人しか気づいてくれなかった。作意など書き手の自己満足なのかもしれない。

「わたしはウサギ」はタイトルからして原本と違っている。岳真也さんがタイトルを変えたのだ。その当時、ぼくはこのことに腹を立てていたが、掲載される方を優先させたため、その旨を岳さんには伝えなかった。タイトルばかりでなく、ラストは削られる始末。約三分の一を三分の一と訂正される。そんな一語においてぼくは気になるので、本所収の中のこの作は、完成度において高いが、文学的変容においては低いと言えよう。実際のタイトルは「できそこないのラブロマンス」だ。ジェローム・ディビッド・サリンジャーからそのタイトルをいただいた。サリンジャーのその作はあまり流通していないという点において継承すべきだと思えたからぼくはそのタイトルを目指した。ぼくはタイトルをつけてから書くというのが、ぼくの書くスタイルだ。かぎかっこを多用したが、そのかぎかっこは北杜夫さんから多くを学んだ。削られたラストはかなりふざけた内容だ。岳さんに跋文を書いてもらう予定がなく、その上、時間が許せば原本どうり発表したかもしれないが、その二つは全く違った作品ととれるだろう。

「小説を書く前に」はアンチロマン。とはいえ皮肉が利いているわけではない。暇にまかせて書いた作品。とにかくぼくは短い作品を書くために短編集ばかり読んでいた。カメラマン時代の作品で、ぼくは結婚式には精通していた。自殺するカメラマンはぼく自身で、それを書くのもぼく自身で、ユーモラスに見えるのは、ぼく独特の映像を言語化する才に尽きるだろう。いわばそれだけの作品だ。

「グッドモーニング・サン<輝ける子らよ、こんにちは>」は大阪文学学校時代の作。同学校の同人誌「樹林」に応募した作。掲載はされなかった。<輝ける...>は故・高村三郎さんがつけたしたタイトル。はっきり言って「樹林」にはふさわしくはない内容。文学臭がゼロなのだ。女性が主人公だが、これがぼくではなく、女性が書いたものであるとしてもおかしくはない。モデルはいるが、そのモデルの過去を知るすべもないので、過去と未来はでっち上げた。その娘(こ)の将来がこうなればいいなという感じで、最後のオチにいたった。少女マンガの活字版みたいなものだ。ただぼくが男性だという面において驚かれる方もいるだろう。書き手は異性であってもうまく書くことができる、とだけ断言しておこう。

「傾向」は雪の街文学賞に応募した作品。みごと落選。今もこの賞はあるのだろうか? 選ばれた作品は読むに値するものではなかった。ただし特に害もおよばさない作だった。ぼくの作はかなりぶっ飛んでいる。傾向とケイコウとケイコウ劇場とこの言葉を使って、架空の世界をでっち上げた。それを散文詩とみるか、破たんした作品世界とみるかで違って見えるだろう。実在の人物でもあるが、雪の結晶写真を撮り続けた農夫のことを書いても誰も知らないだろうし、興味もないはずだ(単なる一節に紹介しているだけだが)。主人公の現実認識が夢、または言葉の世界で閉じ込められ、生きている感覚に乏しいその主人公が向かう先には何があるというのだろうか? その主人公の傾向は...。

「ブックエンド-会話編」は特に読むにかしない。実は「ブックエンド」という書きかけの脚本があり、それを完成させたいが、完成させるまでにかなり時間がかかりそうだと踏んだのでこれを載せた。特に載せる必要はなかった。男と女がいる以上の触手をそそる内容はない。人は小説に男と女が登場するだけで興味をもつものだ。ここには言葉だけがある。その言葉で男と女が存在する。それ以上でもそれ以下でもない。

「ボクとぼくの白い冬」は冬のイメージを徹底的に造形した作である。主人公は美大の学生。絵描きだ。ボクとぼくは同一人物。だれしも内面的に二面性を持ち合わせるものだ。ボクの欲するものとぼくのいうこと、もしくはやっていることが違う。ある芸術家のポートレートして本作は書かれた。冬というものにこだわり、そのイメージを膨らませ、ぼくにあるところの冬を思わせるもので埋め尽くされている。この主人公の喪失感は現在のぼくとはそんなに違わない。だだしぼくは何を喪失したかはわからないが、この主人公はわかっている。

「氷上ブック」はぼく自身がモデルだが、もちろんデフォルメはしてある。それは主人公であるぼく自身がぼくらしくあるというだけでなく、その周りにある世界を氷の本(ブック)と捕らえ、存在不安や言葉の世界だけで遊泳する自己自身が大人であり、その周りに点在する子供たちの世界と分離された、いや、言葉に躓いたぼくが子どもたちが大人の世界、それも杓子定規な大人へと転身する子供たちを不安なまなこで見るぼくが描いた作品世界だ。当り前だが私小説ではない。ぼくは自分がモデルの作品を書いても私小説にはできない。というかならない。ある、からありえる、へいつもシフトチェンジしているからだ。ぼくには私小説を書く人が信じられない。

「戦いにまつわる幻想」は"戦争が終わり前に"と"ロマンチックアーミー"と"南へ"と"戦いにまるわる幻想"という章だてがある。厳密に言うとそれらの作は関連性がないが、キーとなるものがないわけではない。戦争が終わる前には湾岸戦争が出てくるし、その時代なりの記述がみられるが、まったくのフィクションだ。主人公は小さな娘と暮らしているが、妻と別居状態。それを戦争とリンクはさせているが、メインとなるものは子供、自分の小さな娘との関係だ。戦争反対は誰でも言えるし、平和を願うとも誰でも言えるし、それが切実なら言葉にしてみて作品の世界にそれをさりげなく載せるのもいいかもしれない。ロマンチックアーミーは主人公が若い女性。ただ湯船につかって歌を歌うだけなのだが、その歌詞は友人が書いたもの。ここでは明らかにしていないが、歌詞内容は十分男性が書いたものだとわかる。もちろんその歌詞はぼくがねつ造した歌詞だが、出版社側はこの歌詞を既存の歌詞だと誤解してぼくに聞いてきた。南へは全くと言っていいほどぼくの夢見た内容をそのまま作品化した。夢を言語化するとこんな不思議なことが作品となる。あり得ないことだが、夢はそういうものなのだ。あり得ないことからあり得る方向に向かっているので、読んでいる人はそれが夢だとは気付かないかもしれない。戦いにまつわる幻想も夢が絡む。どうしようもない男が小説を依頼される。それも知らない小さな娘が知っていると思っている。あり得ないことを信じてしまった主人公はその娘が自分がでっち上げた作品世界の一人物だとわかるまでにはまるで夢から現実に戻るまでの間を描いた。これら章だてした作品構成は太宰治から頂戴した。これら掌編が夢と現実の境目をうまく表現できていればいいのだが。

「歯―もしくはジャパネスク」はまたもや岳さんの手を煩わせた。ただのジャパネスクが歯―またはジャパネスクになってしまった。この当時もあまりいい気分にはならなかった。ジャパネスクと言えば太宰治でそれをぼく流にしたかったのだが、このタイトルは懲りすぎではなかろうか。もちろんぼくのこの作を読んで一風変わったタイトルをつけてくれたのだろうが、作品内容はぼくの子供の頃の体験をそのまま綴ったと言っていい。ぼくが語る甲斐君は実在の人だ。ぼくがジャパネスクにしたかったのはその言葉のイメージを日本的みたいに捕らえていたからだ。太宰の作品にヒントを得たわけじゃない。

「薬づけのメロディー」はこれも子供を主人公にしている。誰でも子供時代にお医者さんにかかることはあるだろうから、その頃の不思議はそんなに違和感なく入ってくるだろう。ぼくは風疹に罹った頃の記憶をもとにして書いた。子供は大人を良く見ているのだ、ということを知らしめたい作。ごく甘ったるい文章で書いたが、熱病というのを考慮しただけで子供だから甘ったるい文章にしたわけではない。ある言葉を岳さんに訂正されている部分はぼくがまた訂正して本作品にある。岳さんは文章はうまい人だが、言葉のセンスに欠けるんじゃないかと御大を捕まえてふと思う。これは二十一世紀文学の創刊号に載った作。

「P・S」はタイトルは自分で変えている。ノートを見れば原題はわかるが手間がかかるのでみない。うろ覚えで言うと意識の問題だったと思う。変なタイトルだ。主人公は高校生。ただし高校生である、という表現は一切していない。ぼくはどの作でもそうだが、説明しない。若いということを知ってもらうには描写しかないと思っている。そういう意味では読者の想像力に頼る面が大だが、話せばわかるではないが、わかるようにできていることは確かだ。この作で出てくるかくれんぼをした仲という女性とのかくれんぼのシーンは脚本にもある。つまり何回か書いている。経験したことではなく、創作物としてお気に入りなのだ。

「あの透みわたった空から聞こえるセミの声は」は、ほぼ処女作に等しい。これも小節わかれていて、太宰の影響が色濃く見えるが、それは作品の構成であり、内容が影響されているわけではない。すみ(透み)はほんとは澄みなのだが、この漢字だと色が濃くなるので、訂正せずそのまま当て字風にしておいた。"孤笑の人"と"シノニム・synonym-二つの嘘-"と"今だ雨は降りやまず"と"あの透みわたった空から聞こえるセミの声は"で構成されている。孤笑の人はモデルがいる。孤笑というのは、まあいわば造語。大阪文学学校時代に出会ったおじさんがモデルだ。よくわからないがぼくと親しくしてくれた。定年退職していた人だか、詳しくは記憶にない。確か出口さんて名前だったか...。シノニム...は言葉と肉体を言語化した物。しかも男と女の言葉と肉体だ。その中間にある者が海に浮かぶボールを見ているという流れはE.A.ポーのユリイカに影響は受けているかもしれないが、それは海であるというだけで特に共通点はない。だだポーの詩を引用したが、要はぼくが、ある時ぼくのことを観念的と言われたことがあるので、自戒を込めて詩や小説から肉体を取り戻したい、という相反した考えを作品化した物。あの透みわたった空から聞こえるセミの声は、はぼくの世界観をごくモダンに表現した作品。処女作に現れる世界観はたいていの場合その基調は変えないまま作品世界を紡ぎだすと考えているので、正しい正しくないということを考えに入れずにおいてもいいと思う。子供の世界、大人の世界を比較対象し、創作者の権限でもってどちらにも見える、という物だ。どちらにせよこの処女作は変わっている。前後したが今だ雨は降りやまずは、ぼくのお気に入りの作だ。ただ雨の中を銭湯に行く若い青年を扱っているが、落語などを研究していたりしたので、ごくユニークにことは進む。「25歳にして...」と本文にあるが、ぼくはその当時、21歳だった。
by ningenno-kuzu | 2012-03-17 17:26 | ニュース | Comments(0)

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