1985年9月4日(水) 無題(実際にあったこと)

 地下鉄のベンチでタバコをふかしふかし、座っていた。すると一人の上品そうなオバハンがぼくの前までやって来て立ち止まった。そして、ぼくを挟んで何やら問答をしはじめた。
 ぼくのベンチの後ろからやはりオバハンだろうと思われる声がした。

「どうぞ受け取ってくさださい」
 そういって後ろのオバハンは、ぼくの顔の横からにぎりこぶしを突き出した。
 横目でそのオバハンをうかがってみると、正面のオバハンよりひとまわり年をとった、初老のオバーハンで、やはり上品そうな感じの人だった。

「いいえ、いいですわ」
 といって正面のオバハンは、両手でオバーハンの手を包み込むようにして押し返そうとしていた。

「いえ、そういわずに」
 とオバーハンはゲンコツで、
「いえ、ほんと、いいですから」
 とオバハンは両手で。
 しばらくそんなことを繰り返していた。
 ぼくはそんな二人を見ないわけにいかず、チロチロと後ろの自動きっぷ売り機と前のホームをのぞいていた。
 タバコをふかしながら。
「ちょっとお兄ちゃん」
 と急に後ろのオバーハンはぼくに声をかけた。そして、ぼくの眼前にゲンコツを突き出した。ぼくは少し狼狽しながらも、オバーハンの方に顔をねじ曲げた。

「これ渡してください」
 そういってオバーハンは、ぼくの鼻面にそのゲンコツを引き寄せて来た。
 ぼくは思わず、
「ハイ」といってしまって、手のひらを差し出した。
 オバーハンはゲンコツを広げ、ぼくの手のひらにポロポロとコインを落とした。 5円玉数枚と1円玉が、手のひらに。
 その時すでに電車はホームにつこうとしていた。オバハンはその場をいまや離れんとしていて、体は斜めに、向かいつつあった。





上に書いてものは、まりきり事実そのものである。ただし、文章にすると多少なりともフィクションになり得るものだ。地下鉄でタバコを吸えた時期があったのか、と感慨深げにこの文章を読んだ。ベンチを挟んでやり取りしているご婦人がいたのだが、もっとユニークな物にできたことだろう。1985年だから大阪文学学校にいた頃の物だろう。この年代は書くものに事足りていて、事実だろうが、フィクションだろうが、書く事、その一点において迷いはなかったろう。ただし、長い小説を書くことに於いてはぼくはその頃、念頭にすらなかった。これが事実であれ、兎に角小説を書く事の研究に費やした時期だった。この作の描写は完全とは言えないと今では思っている。
by ningenno-kuzu | 2012-11-05 16:35 | 創作ノート | Comments(0)

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