『共鳴詩集』 武田 章利(詩人は語る)

詩というものが直ちに出来上がるとするなら、その迷い無きことばに感銘を受けるだろう。反対にことばを選び抜き、慎重な詩は、ことばにその優劣を教わることだろう。詩人はよく吟味され使い古しのことばをそこから排除する。ぼくが武田さんの詩集に抱くのは、大きなことばの変遷が、もしくは旋律が、まったくもって落ち着きはらってできていることである。大きなことばというのは、例えば永遠という言葉だ。そういう大きなことばを使いながら、臭みがないのは、武田さんの律するところに、詩性があるからだろう。おそらく奥さんを扱った「庭園のソネット」がある。そこにでてくる”あなた”はその人だと思われるが、ある一定の距離が保たれ(読み手が感ずるうえに於いて)、あなたがまるでかの人(奥様)ではない、普遍的な存在者であるように感ずることができる。これは詩としては成功しているといえる。ぼくは詩集の中でこれが一番好きで、こんな立場にいるといいな、という一種の憧れさえ感じる。それが詩の力なのかもしれないが、ぼくも創作者なので、突っ込んで見過ぎかもしれない。が、このアナタが、詩人の語るべき相手に出会った時の一種の”春”の庭園を描写するのに成功していると思われる。

他に「退廃の象徴詩」 「輪転 第一部 萌芽 第二部 予見 第三部 予感」 そして「三つの詩」がある。

イメージとして退廃に遠い詩人が、退廃を語るとき、一体何がみえてくるのだろうか。退廃は生そのものかもしれないと思う僕にしてみれば、詩人であれどその生を否定できないだろう。その意味で象徴は何を語ってくれるのだおるか。再読すべき詩だ。

「三つの詩」では詩の歪みが見られる。危ういところで詩がバランスをとっているように思われる。ひとつ間違えばその詩は、滑落し取り返しのつかない、詩性を失った詩になってしまいかねない。が、作者は強く抱くものがあってか、迷いなくその詩神を歌い上げている。どちらにせよこれらの詩は、この詩集は読まれるべきことを待っているが、ぼくは再読せねばなるべき詩集ともいえる。ここに書かれた詩の数々に手を触れたものは、おそらくかの詩人の詩集を再読すべきだ、と感じるのではないだろうか。
by ningenno-kuzu | 2013-01-17 17:44 | 藝術の光と影 | Comments(0)

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