1998年5月5日火曜 性についての生の考察(創作ノートより)

(ベタ打ちにて)
異性という存在は、異性間に訪れる性的欲求段階によって発見される。それは個体間にも別れはするが、発展段階によって、少なからずも同等の動きを示すかのように見える。性に対して道徳的な発想は、必ずしも教育によって導きだされるものではない。一般的になコンモンセンスは、個人においてあまり意味のないことかもしれない。ある時代のコンモンセンスは、その時代の価値観に左右されるだろう。不倫小説が時代によって不道徳なものであれば、その時代にみあった形で発想される。私は夫婦というごく近代的な形態に賛成である。なぜならばそういう共通の言語を発生させるためには、個体という存在者抜きにしては成せないからである。私は性交にいおいて、いささか消極的な意見を持つ。性交うがPLAYという遊ぶ段階があるとしても、それはある約束事を踏まえねばならないと考えているからである。本質的に性交は、子供を産み育てるためにあるものだと考えている。そういった環境もない上での性交は、全く無意味なものだと思えるのだ。けれども、人間は必ずしも意味のあることをしてきとはいえない。意味のないことに意味さえ与えてきた。なぜだろう? フロイトは、性欲をすべて人間の活動に置き換え、それを体系づけた。それは今日において、見直されつつある。つまり性欲という衝動から切り離された領域が人間には残されていたからである。フロイトは、象徴としてのペニス、バギナを人間の生産する物についての象徴言語であると説明している。けれども果たしてその境界をどこに敷けば良いのだろうか? その疑問は、これからの人間が考えるべきテーゼである。なぜならば人間は性を通して、生き続けねばならないからだ。個人的な話をするとすれば、父がもしくは母が。不倫という形で、存在者であろうとする私を不安という感情にまで高めてしまったとする。私自身、まだ頼りない自我しか持っていない段階によってである。もしそうだとすれば、私は彼らを憎むだろううし、自分の存在意義を問わなければならなくなる。なぜならば、私という存在者は彼らなくしては存在しないのであり、彼らが私以外の者を生成しようという欲求が強ければつよい程、私という存在者の必要性が限りなく薄められるからである。私は彼らが出会わなければ、この世に生まれなかったのだ。彼らが互の性格や主張によって、反発し合っているとするならば、それだけで私は不安になり、それだけで私は私の存在に対して疑問を持たねばならなくなるのである。そういった経験は誰彼なくともあるものだとは想像できる。完璧な人間がいないのと同じく、完璧な世界というものもありえないのだ。もしそうだとするならば、人間はいつでも失敗を犯し、いつでも不幸な存在者であるとしか言いようがないのかもしれない。が、しかし、その考え方はネガティブなものだと言わなければならない。歴史が参考にならないと考える私は、必ずしも失敗が失敗で終わるとは思えない。ハリウッド映画ではないが、ハッピーエンドがないとは言えないのだ。私自身の経験から物を言うと、私はとても幸福な人間だといえよう。今、私が私に求める物もない、と認めることができたのだ。と言って、自分の身の回り、つまり私を取り囲む世界を良し、としているわけではなく、私自身が私に対して良し、と言っているだけのことだ。私がそういう気持ちになぜ至ったかは説明のしようがない。私が私にかした設計図が、自分が思うように引けたからかもしれない。いや、それだけではないだろう。私の性的欲求が、フロイトのいうところの、昇華に結びついたのかもしれないが、私が愛し求める対象が必ず一人に限定されることを想像に固くないと思われることによって、私は私であること、つまり存在することを確認できたからではないか。つまり、その点において不安になる必要などないのだ。だから私が、夫婦という形態において落ち着くなら、奇跡的とまで言って良いくらい生まれることになった我が子が、自分自身において、幸福点にまで高められると想像するに固くない。つまり私が得た幸福感を、あえて彼らと呼ぶのだが、彼らは得ることができるだろう、と確信できるのだ。私の中で、性は生と結びつき、あらゆる快楽はその過程の中で得られることと確信している。世界がどれだけ歴史的に残酷であろうとも、私は私でしかありえないし、彼らも彼らでしかありえない。また、世界像を通して、私が感じる悲しみや苦しみさえも、私は感受し受け止め。私は私なりの発言力を持って、私にだけできることを私は行うだろう。いや、それしかできないのだ。また、それだけで十分なのである。自分にできないことをやる必要などさらさらないのだ。生と性において、自分が存在していると確信できれば、人間はそれによって、自分が何ができるかできないかの判断はわかるようになると私は楽観視している。人間がいくらおろかな生き物だといっても、仕方がないし、それに甘んじる訳ではないが、個人のできることはたかがしれてはいるといっても、私のような存在者が一人ではないと想像もできるものなら、この世界はまんざら悪くなくはないと思える。いつか性と生の中に、共通の言語を適応させて、正しい調子や、自分のできる最大限のエネルギーでもって、いずれ人は成熟できるものだと思われる。何事においても諦める必要はないが、自分の存在が自分にとって過不足ないのであれば、その人は幸福な人間であろう。つまり生と性間において、人間の求めるものは、自己の存在なのである。その自己の存在に気付いた時はじめて、自分を自分でほめることができるだろう。
by ningenno-kuzu | 2016-09-12 19:38 | 創作ノート | Comments(0)

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