言葉で世界をKAIZENする

ネットの世界に通じるとなにか目新しいものはないか、と好奇心を満たしてくれる。だがそれら情報は限られたものであり、歴史性を感じさせないステレオタイプの情報で占められているようだ。同じ文言の言葉で検索をかけたら、今ではもう目にすることのない情報へと変化していた。つまり検索に引っかからないのだ。深く調べてゆけばそこのそこに見られるかもしれないが、事実上それらは消されたのだろう。多くの人が関心を失ったためか、そこになんらかの価値観で牛耳られたかして、検索に引っかからなくなったのだろう。事実はそう簡単にはわからない。

人と人の間には言葉がある。その言葉がある種の人間関係を産み、同じような言葉で二人以上の人物は会話する、もしくは何かを執り行う。どんな職業に就いても会話のない職業はない。つまり言葉で仕事をしているのだ。これこれはこういうものだ、という取り組みが仕事のあり方を決める。政治家であれ科学者であれコンビニスタッフであれ、使うのは言葉だ。警官は偉そうに犯罪者に対して言動を行うのかもしれない。すべては人間がやっていることであり、立場が違うだけで主従関係みたいな構図ができてくる。

ぼくがもし起業したとしたら顧客に対して対等な立場で仕事をすることになろう。顧客が偉いのではなく、そもそも人間同士であるからミスもつきもので、それは会社側にも顧客側にもいえる。だから顧客が偉いわけじゃないと、対等な立場で仕事を進めることになろう。お金さえ出せば偉そうにいえる風潮をなくすことに心血を注ぐことになろう。だがしてそうした会社があるだろうか? まずないと思う。ぼくが言っていることは極端に見えるかもしれないが、演技されたように主従関係で繰り出されることばにぼくは違和感がある。またサービスは誰がしても似たような物になるネット文言で占められている。確かに定型文は便利である。ただそのには人間の匂いがしない。そんな文章を書くのならメールで送るのなら人工知能にやらせた方が効率的だ。ただメールなどを受け取る側としては、少なくとも1人以上人間がメールという手段でコミュニケートするのであれば、生きた言葉が読みたいものだ。誰が書いても同じような文章には、その書き手には、ぼくはバカの称号を与えずにはおれない。

言葉の使い方には実際にコミュニケーションをとる際とても重要な要素を含んでいる。ぼくが2010年に行ったユーラシア大陸横断旅行もまるで言葉が通じない相手に対して、ぼくはあらゆるコミュニケート方法を駆使した。ロシア語の書かれたガイド本、拙い英語、表情、手振り身振り、車の趣味、ありがとうというロシア語etc。ぼくが実際交わした会話は口で発した言葉はそんなに多くない。それでも楽しく旅行ができたし、ロシア人やポーランド人たちには、ぼくが日本人という中の代表選手とでも思われたろう。外国人たちはみな親しみやすく(僕自身が懐が深かったからだろう)飲んだり食ったり、本などは読む暇がなかった。

つまりことばというのは書き言葉、話し言葉だけでなく、ボディーランゲージというのも実は多くある。だから旅するときにはその人の人間性が大切なのだ。僕みたいに人間対して人見知りをしない、並々ならぬ人間に対する好奇心がある人物には、相手にとって接しやすいのだ。そういう手法をすべての人が理解しそう振る舞えば、無駄な争いをせずに済ますことが出来る。つまり世界をKAIZENするにはその人のコミュニケーション能力に依存している。言葉の通じない相手に対してどう振る舞えばいいかということを自分の中で捉えて、そこに同じ人間を発見すれば、ぼくらはすぐに仲良くなれるだろう。人間性が世界を変え、コミュニケーション能力が良き物に使えることができたら血で血を洗う世界から決別出来るはずだ。

by ningenno-kuzu | 2017-05-04 19:02 | 日記 | Comments(0)

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