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パラノイア通信ーリアリティVol.不明

ある日の夜、自販機に水を飲むため家をでた。そして飲んでいて、ふと空を見上げた。星が見えた。でもそれは明滅している。つまり飛行機だったのだ。星はその日みなかった。

我々がリアリティーを感じるのはどういう場合があるだろうかと。文字情報だけで恋愛に発展する場合をぼくは知っている。もちろん相手が異性であると認識に及ぶには文字だけでは足りないかもしれないが、やはりメインは文字なのだ。

お金に我々は価値を見出している。そして現実的だ、と揶揄される場合、女性が男性を見るポイントとして年収であったりする場合がある。でもお金というのはただの紙切れでもある。だがよくできた紙切れなのだ。でも我々はお金が価値あるものだという認識では一致することだろう。言ってみればそれらは妄想だ。でもリアルではある。人間の特殊な能力をそこに見る。

人間に近いとされる霊長類はお金は使わない。そういう概念がないのだ。我々は頭のいいとされる霊長類を見て、すごいと感極まる場合もあるが、人間の方がもっとすごいのだ。ないもの(本質的に価値のないもの)に対して我々は価値を見出す。とりあえずお金に限定して話を進めているが、我々の取り巻く環境にはそういったもので溢れている。携帯電話の普及で(その前に固定電話があるが)当たり前になった通話は確かに相手の声を聞こえるが、ある種の前提があり、聞こえることにしている。それは変な話だが、そういう共通認識がないと声ですら人間は認識できない。

リアリティをそういった物事に感じるには、価値観というものが密接に関係している。見えるもの、触れるもの、聞こえるもの、それらは現実味を持つか持たないかによって、または価値があるかどうかによって、多数に感じられる場合と少数者にしか感じられないものと大きくは分かれている。もちろんその間もないわけではないが、俯瞰して見ると二つに大別されるのだ。

人間を動物にたとえ動物を観察するかのように書かれた本にデズモンドモリス『裸の猿』がある。沢山の人の中には「人間は動物だ」という人もいるが、この本に書かれたような認識はなく、通り相場でそう言っているだけで、観察眼を感じることはできない。この本を読んだ、その当時の芸術系の大学生は「いじわるですね」と感想を述べていた。だがその視点はこれからの世界創造には必要だろうと思う。

人類史を見てみると人間のして来たことは、殺戮の歴史だとわかる。でもそこに自分と引き近づけないで歴史を見ると面白い逸話となって、笑い話にもなりかねない。歴史家の多くはその点を全く顧みない。これは恐るべき認識の誤謬であり、それがリアルであると思うのは(歴史の話とか)自分と関係ないからで、想像力の欠如が多くの人にみることが出来る。このことは救いようがなく、人類の営為が『ナチュラルボーンキラーズ』であるのなら(この映画内容と関係ない)、その解除キーを我々は探すべきなのだ。

ヘルマン・ヘッセが至った人間に対する嫌悪は人間本質から来ているのではないかと思っている。とはいえそれは調べようがないし故人であるから知るすべもない。

例をあげて人間の所業を網羅したいとも思ったが、それらはここに訪れた人がそれぞれにおいて興味があらば追求してもらいたい。歴史を見るととんでもない事実がわかる。嘘だろと思える歴史もある。とはいえぼくは歴史家ではなく、単にリアリストについて書きたかっただけだ。ある種の結論をあげると人間はリアルに生きてはいるが、ありもしないようなことに価値を見つける生き物なのだろうということだ。

どちらにせよリアルはいつでも個人的感想でもあり、集団的妄想でもあると思う。何に価値を見つけるかがキーであるかもしれない。



by ningenno-kuzu | 2017-08-05 09:17 | 藝術の光と影 | Comments(0)

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