人気ブログランキング |

カテゴリ:エム・アイ・ケイ・アイ理化学研究所( 17 )

光の在り方

光を物質とするとちょっと世界の在り方が変わってくるように思う。それは正しくないという感じで僕は捉え、つまり光を従来の物質と同じものであると僕は理解できない。

そもそも光子は粒子という概念で捉えられているが、波動としての動きも注目に値するならば、やはり光は物質とは分けて考えるものだと思われる。物質でなければなんであろうと考えることが通常であるが、僕自身なんであるかというよりもその効果、つまりそれは物理現象としての効果としてとらええるべきものではないかと考える。

その現象とは閉じられた物理空間にもたらされた伝播するもの範囲を定めるもの、この二つをクリアしたものが光の在り方に最も近い表現となるであろう。またこの物理現象はいろんな形に変化させることが可能で、電気的エネルギーにその周波数帯を変えて変換することができる。ただしその方法は深くはまだ誰にもわからない。原始的な方法、つまり熱エネルギーを水蒸気に変え発電機を稼働させ電気を得る方法がメジャーだが、そのうちとんでもない方法で導かれることになるかもしれない。

この光が場であること、限られた空間に持たされることそれらが大きなヒントとなろう。この命題は深く掘り下げてみても良いこれらから世代の考えるところのものだ。

by ningenno-kuzu | 2019-08-25 20:03 | エム・アイ・ケイ・アイ理化学研究所 | Comments(0)
宇宙というものの謎は深まるばかりだ。宇宙という存在は我々と関りがあると見ることはできるが、それがなんであるか解明することは不可能であろう。その時代時代の観測装置の我々に与える値の解析が宇宙を形作る。それは目で見ることのできる範囲内で収束するが、想像なり妄想なりでその可能性を仰ぎ見ることも可能であろう。

宇宙は巨視的だ。それは我々の持つスケールではそうとは言える。けれどもその大きさは、我々の大きさの概念であり、比べることのできる何らかの対象があれば宇宙は微視的にも見られ、突っ込んだ意見では微視と巨視のリンクが我々の世界観を世界線を記述できるのかもしれない。

大きく、小さく。その極限は我々には見ることは不可能なのだろうか。だがそれらを知ることはできるのだ。想像力があればその点を強調できる。うごめく素粒子が例えば我々人間の行動であると記述できないわけではない。それら微視を個人に置き換え、巨視を国などの大きな枠組みでとらえることも可能だ。

であるけれども、地球があり、宇宙があり、その他恒星や惑星が宇宙になかにあるとするこの世界は、何か意味や意義が含まれているかに見えるが、実際のところ一切の意味や意義はないのかもしれない。そこには空虚な物質で満たされていて、偶然必然を問わずに存在するから存在するという堂々巡りの無意味な世界が広がっているにすぎないのかもしれない。

そこに意味や意義を問うとき、我々の生命を問うこととほど近いことになるであろう。生きることと宇宙が存在するということが、どういう関係性の下で繰り広げられるか? これら不思議はどんなに科学が発達しようとも解決されることはないであろう。この問いは世紀をまたいで問い続けられるのだろう。

by ningenno-kuzu | 2019-05-12 12:18 | エム・アイ・ケイ・アイ理化学研究所 | Comments(0)

時間の概念

そもそも時間というものは存在しない。それは生体で有ることの宿命において存在しているように見える。宇宙の誕生からその終焉までと我々生命はリンクしている。それらは時の流れとして表現されるが、実際には時間をはかるすべを我々は持っていない。

グリニッジ天文台を東経では0度と決めた。天文台があるイギリスでは、0度に決められた真上に太陽が来た時に正午となる。日本でいえば東経135度の地点が、やはり太陽が真上に来ると正午となる。これらの基準なしで我々は日常生活を送ることができない。

こうした決まりごとは、科学的な長い歴史上の物の見方にっよって決められた。別に東経0度の地点が僕の家の真上であってもかまわないのだ。でも歴史的経緯は僕の家を東経0度とはしなかった。だがどちらであっても問題はないことでもある。

アルバートアインシュタインは時間は伸縮すると言っている。僕の見解からいうと時間は概念であり存在しない。物理量としてとらえることは不可能だ。彼の時空の歪みは僕の意見では重力と関係があるように思える。重力が与えた効果が、すべてのものに質量を与えたのだ。そこには未曽有のエネルギーが潜んでいるかもしれない。ただそれを現代に多く使われている電気エネルギーに変換できるかはわからない。

地球の自転公転が暦を作り時間を作った。だがそれらは概念に過ぎなくて、現在にあるような形で成熟したのは歴史上における人間存在の営為であったことごとに還元できるだろう。

僕の見解からいうと時間は存在しない。我々が作った物差しに過ぎない。それは便利であるが、単なる決まり事でもあるのだ。もし仮に人間たちが違う物差しを使用していましたなら、暦や時間というものが現在とは全く違うあり方を示していたことだろう。

僕は時間が存在しないと言っているが、誕生と終焉という代えがたい宿命は、時間があるように思える。何かをこうしたという決まり事と生命の在り方の歴史が我々をここまで運んできたのだ。

なぜ生命は永遠ではないのか? それは宇宙誕生ゆえの宿命である。宇宙はやがて崩壊する。つまりこのことが人間、生命というものの宇宙と共にあることを示している。宇宙は生命そのものなのだ。その重力は質量を作り、その質量はエネルギーに還元される。比例しているのだ。

こういったことは一般的ではない。ある種の見方が与えた結果だ。それを科学的とも言えるが、人間の所業はおろかでもあり賢くもある。僕たちがいま目にしている世界は別に正しいから有るわけでも、正しくないけどあるというわけでもない。選択してきたいろんな系の選ばれた結果なのだ。

時間が刻まれた時計は生きているのに必要であるから選ばれたのであり、時間というものがあるからできたのではない。

これら命題は引き続き誰かが拡張してくれるだろうか。そんなこと僕は知らない。

by ningenno-kuzu | 2018-06-30 13:06 | エム・アイ・ケイ・アイ理化学研究所 | Comments(0)

人の間

日本人だけで考えてみよう。僕は外国人ではないので、外国のことを詳しく知らないからだ。

人は良く人間関係という。それは学校なり会社なりにあてはめられるだろう。「関係による関係の関係」とはセーレンキルケゴールの残した言葉でもある。複雑な関係により人間の世界は成り立っているようだ。そういう関係性は現代でも根深くある。キルケゴールのその時代の立場は一種の異端児でもあった。現代日本ではキリスト教会系の学校では、キルケゴールのことを学ぶらしい。だがキルケゴールの時代では、教会からそして民衆からさげすまれていた。

日本には数々の企業がある。大中小とそれらはあるのだろうが、名前の売れた企業では大学卒業が必須となる。中途採用であればその上、職務上の経験が必要となる。ぼくはこの点を真面目に考えてみた。

例えば仕事ができる人を採用しようと誰が真面目に考えるだろうか。また仕事のできる人がいたとして企業が求める人材である必要があるだろうか? ここで選別されるのは文字通り平均値なのだ。大学を出てこれこれの経験を積めば仕事ができるだろう、という定型文がそこにある。実際、人間のやることだから出来不出来は伴うが、目安をもうけないことには会社に必要かそうでないかが採用側に理解することは難しいのだ。つまり無難なやり方で人を採用することになる。

また会社で必要以上に優秀であることが望まれているかといえば答はノーだ。ここでも日本風平均値であることが望まれる。まるで右に倣えというとでもいうような、ともかくも良くも悪くもない人が選ばれる。またとびぬけた人は学歴や職歴を企業の求める経験を持っていない場合が多い。また選ぶ側に優秀な人を見分ける眼力が備わっていないのだ。学歴や職歴に優秀さを見分ける項目は存在しない。それが採用側にはわからないし見ない。

日本では自動車産業が花形と伸びてきた。それは主に燃費が良いことと故障が少ないという品質の面で伸びてきたのだと思う。世界に誇る日本の自動車。

後略

by ningenno-kuzu | 2018-05-05 16:45 | エム・アイ・ケイ・アイ理化学研究所 | Comments(0)

宇宙時々喫煙

人々は日常に取り巻かれている。やるべきことが誰にでもあり、そうして一日を終える。頭のいい人という考えがある。そういう人は物事を沢山知っているのかもしれない。だが考えてもみたまえ。物事を知るには限界があるんだ。どの人もまたどの人もすべてを知ることなどできない。知っていることなど誰しもわずかだ。知りえることなど大差はないのだ。

宇宙がある。この秘密は誰にも解けていない。わからないのだ。物理の法則は正しい宇宙の捉え方を説く。しかしながらそれらは万人の物ではない。ある角度から見たら正しいとされる見方が備わる。でも遠くを見るには我々の限界を知ることになる。

恒星や惑星の数々ある中で地球と似た星があるという。つまり科学者たちはその星に生物が生息すると期待を持ってそう考えたのだ。だがそれら考えは人間らしいと思われるだけで、そのアイデアは僕には空しい。宇宙と人間の関係をもっと我々は知るべきなのだ。

みたまえ宇宙を。そこに何があるかね? 星々がある? 星々の空隙は何で満たされているかね?  

これらの不思議を我々は看過できない。そもそも我々が我々を看過できないように宇宙はあるのだ。また宇宙との関係を科学者の多くは見ようとしない。せいぜい単なる壮大な空間であるという観点でしかとらえようとはしない。人間の生きると宇宙の関係を彼らは考えないのだ。それは一種の哲学的概念であると思われるかもしれない。だがそれは違っている。哲学的な捉え方は科学と程遠いと思われるかもしれないが、科学と哲学は観測地点を同じくできるのだ。

数式であらわせる事象は便宜的な解決を図るにはちょうどいいかもしれない。ぶれない共同幻想を抱くことができる。しかしながらそれは言語を数式としただけで、共通の命題を認識する上では便利であるが、事の本質に触れるにはどこか欠けている。同じ方向を見るには便利なだけなのだ。

あらゆる事象は人間と宇宙の関係性から考えることができる。地球上にあるものが、地球はもちろんのこと宇宙との兼ね合いで存在し存続しえるのだ。人間が作ったあらゆる物質的な物。それらは現実を構成しているかに見えるが、世界はそんなに狭くない。またイメージの広大さはどこまでも続く。人間はある時代からこう見ようと通り決め、そうみることにより現実にあるものが生まれただけだ。それらは正しいからあるのではなく単なる宇宙の見る観測地点を決めたことにより生まれただけのことだ。

静かな宇宙。まるで関係ないように存在する宇宙。だが宇宙はどの時代でも我々と共にあったのだ。

by ningenno-kuzu | 2018-05-04 09:40 | エム・アイ・ケイ・アイ理化学研究所 | Comments(0)

spring-8 SACRA

by ningenno-kuzu | 2018-04-29 13:09 | エム・アイ・ケイ・アイ理化学研究所 | Comments(0)

宇宙の描像

太古の昔から宇宙を眺めていた人々がいる。それらの人々の宇宙観は新たな発見によって変わってきた。科学というものが叫ばれるようになって、もしくは観測機器の新たな捉え方によって宇宙は変化しいてきた。宇宙は変化するのだ。それは我々の見方によって変化する。

素粒子物理が宇宙の一つのモデルであると捉えることができると思う。それはビックバンにいっよって囁かれ、現代科学の発展と共にあるかのように見える。

単純に言えば素粒子は素粒子でしか観測は不可能かもしれない。例えば光子を観測しようとすれば一つの光子を飛ばして観測すべき光子にぶつけそのはじかれた光子の位置を観測する以外ないだろう。勿論これは一種の思考実験であり、実際に光子と光子をぶつけることは不可能だろう。また位置と速度は同時に観測できないという。その点について僕は画期的なアイデアは持たない。ただし光の速度が普遍であるのだから速度は観測する必要がないだろう。恐らくこれは光子というわけではなく、一般的に素粒子と呼ばれるものなのだろう。

宇宙は有限であるか無限であるか?  現代の物理学では有限であるという説が有力だ。ビックバン説が正しいとしたなら、どう考えても有限であると言えよう。ただし一般的に使われている時間という物差しでは、人々はそこに無限大を感じることだろう。

であるがして、物理学というものを科学者の手に任せてよいものだろうか。宇宙は科学者のためにあるものだろうか? 科学という専門分野が特別な物であろうか? 

宇宙が科学者のためにあるわけではないように、人々に関係がないわけではない。大きな意味では人々の持つ宇宙観が社会や国々の在り方を決めるのだ。そこに神の存在を感じる人々も居ることだろう。物理学という神と縁遠い分野と思われがちな科学者であってしても、物理の法則から見て神がいるとしか思えないと発言する科学者もいる。この問題は根深く、恐らくこの問いに答えられる科学者はいないことだろう。

専門性を高めることは社会に適応するためには良いことだ。だがその専門性の高さが災いして、正しく宇宙の描像を描けないのではないかと僕自身懸念している。つまり有益な問いかけとして人々の未来をはぐくむ世界観の創造に欠けるのかではないかと思うのだ。また科学者の発言が科学的に見ていつでも正しわけではない。それはどんな世界にも言えることで、人間は間違った情報の下に生きているといって差し支えないだろう。

もし間違いに気づいたならそれを正す姿勢が人間にはつようなのだ。どんな人間も誤謬を犯す。それはどうしようもないことで、価値観や世界観、そうして宇宙観というものを照らし合わせて、世界の創造をその目で確かめる必要がある。人間が一生かかっても得る事のできない諸問題もあろう。しかしながらつまずきつつも将来に向けて、人類の共通する命題を宇宙と共に歩もうではないか。

夜空には星がある。その輝きは灼熱の太陽の数多多数だ。キラキラときらめき光を何千光年という人類が存在していない遥か昔の記憶と共に我々に囁きかける。その神秘的な広大な宇宙はいつも人間と共にある。



by ningenno-kuzu | 2018-03-31 07:37 | エム・アイ・ケイ・アイ理化学研究所 | Comments(0)

ふと考えてみた

時間が伸びたり縮んだりする。これは相対性理論で明らかになったことだ。こういうことをぼくはふと考えたのだ。このことは一般的ではない。つまり時計など日常に使われている正確な時間とは隔たりがある。世間の人はその伸び縮みに日常的に出くわすわけではないのだ。だが実際は認識されないだけで、時間の伸び縮みする場にはいつでもいるのだ。

だけれども多くの人はそこに不思議を感じない。また現代の科学者とて本当の意味で一般相対性理論を理解しているか、といえばぼくには疑問が残る。科学者がいくら科学に詳しくても、人間であるという限界の下に理解できていないのではないかと思う。僕自身、実のところ相対性理論をまったく理解していない。頭で考えてもわからないのだ。

時間が伸びる、縮む。このことは誰にでも明らかではない。時計は確かな時を刻むかに見える。とはいえ世界一正確な時計と言われる原子時計ですら、年間何万分の一か何億分の一かしらないが、狂ってしまうのは確かなことだ。その微視的な狂いは何を意味するのだろう。

この間、ある人と待ち合わせをした。ぼくは待ち合わせ時間の何時間も前に待ち合わせ場所に行くために家を出たのだ。そうして余りにも早いから、映画館で映画を1/3位観て劇場を後にした。それでも待ち合わせ場所に着いたのは1時間前だ。19時待ち合わせであるから18時にはそこにいた。だがそうして時間を潰すためにコーヒーショップでコーヒーを飲んでいると当事者から電話があった。なんと1時間遅れるという。これには参った。正確には30分遅れるということだったのだが、電話をとった時は待ち合わせ時間の30分前、つまり18時半だったのだ。

時計はある意味、正確だ。その概念を用いると遅れた人、早く来すぎた人に大別されるだろう。そもそも共通の時間があるのだろうか? 時計は正確なはずだ。微小な誤差を除けば正確とも言える。誤差は無視できるほどのものだ。だが人間はそういう機械仕掛けでできているわけではない。微視的なものだけでできてはいないのだ。体もあるしそれを統括する頭があり、それらが心を産む。その出来上がった人間は、時計を信じてはいる。だがことは時間通りに進まない。

この論点が相対性理論を語ることに必要ではないのではないかとふとぼくは考えた。またそこに正しさを持ってくるのはどうだろうという思いもある。正確無比な時計。それらは我々の神であるか? 時間の概念そのものが神であって、正確な時計は単なる計りであるか? 時は金なりといった人もいる。また我々は時の矢に乗っかっているようにして老いる。時間は反対には進まない。だがその時でさえ、同じ時を刻んでいるとは思えない。同じ歳でも老けた人若く見える人がいる。それだけじゃなく生物学的に若くしてなくなる人もいる。統計学で平均寿命ははじき出されるが、それはあくまでも平均であって、実際に誰それの人がいつ死ぬかという未来像に重ね合わせることは不可能だ。

この不思議な時間。生物学的には逆まわしのフィルムみたいには動かない。ということは時間にはビックバンの始まりと終焉の人間版とするなら、人は生まれ死んでゆくということがわかる。それが一番正しいのだが、その宇宙観を誰しもが共有することはない。こんなことに興味のある人は少ないと思う。とはいえこれら不思議は究極の人間存在を問うことに寄与すると思う。青年期の問題がこれらの概念から導かれることもあろう。

心理学とエネルギーは何らかの関係にあるのか? こんな疑問も僕の中にはある。心理的な問題が世の中を動かしているように思われるからだ。世界が動くとはエネルギーがなければ不可能だと思うし、心理学から人間本質を導き出し、解決に向けた方策を練るにはやはりエネルギーが要る。つまり人間存在そのものがエネルギーを持った存在者であるということは確かなように思う。だがそれは普段は誰も思わないだろう。エネルギーそのものがエネルギーについて考えるとはおかしな話かもしれない。

人間の個人の持つエネルギーは何かを媒介した時に発生すると思う。またそれらが記録するにふさわしければ第三者の手で残される。記憶されることだろう。自分のエネルギーを知るには時間的流れの速さ遅さが問われるかもしれない。速さは歳と共にますが、それは経験値というエネルギーを得たからかもしれない。

ぼくはこんなことをふと考えてみたのだ。そこには結論はない。正しさが正義というものと違うように、数ある中の一つであるということ。時間は誰にも操れないということ。エネルギーが時間を伸び縮めるということ。そんな気がするのだ。

by ningenno-kuzu | 2017-11-30 16:04 | エム・アイ・ケイ・アイ理化学研究所 | Comments(0)
僕はある日思いついた。それは電撃的だった。僕はアインシュタインのエネルギーに関する方程式を思い起こした。そうして「二次元球面理論」を思いついたのだ。

はてさてその内容は? 既にここブログでも明らかにしているので詳しくは述べない。研究というのは長い期間を要するが、それが何らかの形になるのは、イナズマのごとく瞬間のものでもある。

ぼくはアインシュタインの式にエネルギーを追加しただけだ。つまり人間にも質量があり、その質量がある人間が見た世界をぼくは考えた。アインシュタインによればエネルギーは質量に比例するのだ。人間、質量のある人間。つまり人間にもエネルギーがあるのだ。そのエネルギーがある人間が見た世界をぼくは記述しただけだ。

まったく難しい話ではない。すごくシンプルなのだ。そのことでぼくがどう解釈したかは、ぼくのブログを読んでもらえたらわかることだ。

by ningenno-kuzu | 2017-08-06 09:05 | エム・アイ・ケイ・アイ理化学研究所 | Comments(0)

知的好奇心の旅

この世界は不思議に溢れている。宇宙誕生すらはっきり言える人はいないと思う。メジャーな理論ではビックバン宇宙論が正しいとされてる。でも宇宙てどうして出来たか不思議に思わないだろうか? 人間に認知できるすべての物や世界は不思議ではないだろうか?

人間は生きている。そうして時に宇宙のことを考える。ぼくにとってそれらはわからないことだらけだ。先のビックバン宇宙論ですらぼくは全面的に賛成できない。それは一つの見方だろうと思。だが加速器で初源宇宙の状態を観察することが出来る。それにしても宇宙のエネルギーと比べたら加速器は一体どれくらいのエネルギーで加速されるのだろう、とふと思う。

そんなこんなで夜空を見上げたとき、空には星々が静かに輝いている。古代ギリシャの人は星座に物語を加えた。人間はずつと宇宙を見てきたのだ。ただ最近の人たちはあるかないかわからない仕事に忙殺され、夜空を見上げ星々を観察することはないのではないだろうか? 七夕は身近にあるのに夜空の星に心の平安を求めないのだろうか?

それらは僕の誤解かも知れない。恋人たちは星の下に自分たち二人のコアな会話をしているかも知れない。

ぼくは追いかけてゆく。宇宙の創造から現在の物質文明を引き出したキーとなる事象をぼくは考える。人間はある意味特別だろうと思う。だが人間は神ではないのだ。

物理学の世界はもはや哲学の世界となっている。巷にあふれる宇宙論にはぼくはいつも辟易とさせられる。そこに正しさがないからというわけではなく、本が売れるには必要な文言に溢れ、中身が問題なのにそれを顧みない。そこに僕の落胆がある。

僕は見るもの聞くものに疑問を感じる。自分の頭で考えるのだ。どんなものでもどうなっているのだろう? という子供みたいな好奇心のもとでぼくは物事を見る。それには基準がなくわからないものを分かりたいという欲求が生じるのだ。

世界は戦争、紛争や宗教的対立で満ち溢れている。調和のない世界が世界の基準でもあるかのように悲惨な現実で溢れている。こんなことでもぼくはそれらをストップできないか考えるのだ。またどうすればいいとかあれこれ頭を悩ます。全面的な解決はなされなくても部分的に争いごとのない世界にぼくは憧れる。

そういった調和と安定を軸とするには経済で恵まれた人を増やすしかないのかとも思うが、我が日本は経済大国第三位でありながら格差は広がる一方だ。また日本は決して安全安心の国ではない。世界と比較して治安が良い方だと言うしかない。つまり相対的なのだ。親が小さな子供を殺すくらいだから、ほんと日本という国は素晴らしいと思うよ。

by ningenno-kuzu | 2017-07-08 16:39 | エム・アイ・ケイ・アイ理化学研究所 | Comments(0)

自画像 paint by 魔ギオ


by 穴田丘呼