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カテゴリ:藝術の光と影( 52 )

パラノイアとして

 僕は長い年月を費やして逡巡してきた。それはおそらく二十歳の頃からであろう。詩人や作家という存在を神格化させていて、自分という存在がそのなり手に相応しいかどうか考えあぐねて過ごしてきたのだ。これらを時間のロスとみなすか、そもそも僕にとって必要な行為であったかどうか、それを知る手立ては今のところない。

僕は考えるということに時間を惜しまなかった。考え書き連ね読み返す、という行為を延々と続けてきたのだ。そこには正しさはないだろう。誰にでも通用するマニュアルはそこになかった。ただ確かなことはそれが自分らしい行為のひとつだとはいえることだ。

僕みたいに飽きやすいタイプが、それら年月を費やし、ちょっとした言葉の羅列をものにし、大きくは小説や詩に変換できたことを思うと、無為な行為とは言えなかったと思う。だが先のように万人の物ではないのは確かなことだ。僕が書くことと考えることをほぼ同時に行えるようになったのもそれらの年月が与えられたからであろう。

僕はそれらを誰かに要求されたわけではない。自ら進み出て体得した行為だといえる。だから僕には誰一人、現実生活において師といえる人は存在していなかった。自分が考えその考えを記録し、それを自ら読み返した。小説の類は誰彼となく見せもしたし、読んでもくれた。とはいえ書く上においては誰一人、僕に享受すべき対象はいなかったのだ。それを孤独といえば孤独だし、孤立といえば孤立だった。つまり孤立無援であったことは間違いはない。

ただしその傾向は僕を豊かにしたのは間違いはないだろう。つまずき転び、立ち上がり進んでゆく。これらの繰り返しは、第三者から見たらちょっとした悲劇かもしれない。僕が求めさすらったものは、僕でしか認識できないような高みにあった。僕の道化は人々を苦笑させるかもしれないが、見事に起立する芸術家を生み出した。徹頭徹尾その信念といえるものはまがうことはない。もちろんそれも正しさを優先するのではなく、自己自身であるという記録されるべき対象物である。

「芸術集団パラノイア」という目に見えない団体は、もうかれこれ創立20年にも及ぶ。その頃のメンバーの多くは、どこにいるかさえわからない。それぞれがそれぞれの立場で生き続けているだろう、という想像はできるが、それは実際のところとは違っていることも僕には理解できる。

また昔からのメンバーとまったく繋がりがなくなったわけでもない。ただし彼らと何らかの認識で一致しているとは言いがたいのも確かなことだ。そこには始まりもなく終わりもない、何らかの方向性を持ちながら四散してしまったことであろう。パラノイアの括りは大道を見るではないが、大まかであり、現代の資本主義文明とは、ちょっとした乖離がある。人が目的を持って集まるには、その乖離は求心力に欠ける。ただしそれだからこそ破綻もなく、生命の許す限りの大きな枠組みの中で、どこかで花を咲かせているのだと思う。

そんな僕らの幻想は、立ち抱いた心根に深く刻まれることだろう。ただそれが唯物的な目に見える形になりえるかは不明だ。稀代まれな科学者や哲学者が、この時点に歩み寄り、なんらかの歴史的世紀へと引き続き循環するエネルギーを見出す場合もあることだろう。ここで僕の営為が映画という形で表現されたとて、それは芸術の一端を語るだけで、それがすべてではないと認識していただきたい。その提出の仕方は異端であるけれども、深く根付いた映画愛と僕のセンスと、そのセンスの中にある深い憧憬、そして見まがうことのない現実との共同作品となるであろう。

人間という生き物に与えられたチャンスはそう多くはないと思う。またそれらの中にある価値概念は、やはり個別的な計らいの下で記憶すべきかもしれない。僕が映画を監督として撮影に及ぶということは、何も奇特な行為ではないと誰しもが納得する方向性で僕は撮りたい。そこには資本主義の価値観をある程度導入するしかない。ありとあらゆる芸術活動には、縁があるないにかかわらず、経済の問題が存在する。であるのならその点をスマートにクリアして、世の中の享受すべき対象といかばかりかなる必要もあることだろう。

人の世において表現方法と手段は、過去の連続であることだろう。その過去はあいなれない現実認識と平行線ではいけないと思う。そこに込める物事は、峻別された特権階級の独り言に終わってはならないのだ。まるでπ中間子のように、陽子と電子の間を結ぶ自由な物質であるべきだ。行きかう人々、そこに集合体を見るだけにとどまらず、そこに敢えて座し、そこから見えてきた現実というバイアスを拡張して、未来に結びえる新しい価値概念も含意すべきかもしれない。

僕ら人類は目新しいことで生存を続けてきたわけではない。衣食住ではないが、その基本的なスタイルを変幻させつつ生きてきたのだ。それらの個々の内容は違っていても、我々の心に深く刻まれるものは、本質的には何も変わっていない。それを新しい時代とされるものからビジョンを傾け、未来につなげるすべを藝術というものは持っている。

人の生涯に喩えられる藝術的な物ともそれらは分け隔てがあるとは言えない。それだけ人間の生きるは、煩雑でもあり、共通する確かな手立てが存在するのだ。

人の生きるに求めるなら、総合芸術といえる手法を使わないわけにはゆかない、と考えだしたのは、2000年前半のことだ。ただそこに至る経緯は複雑ではあるが、僕が個人的に言いえることは、そこにたどり着いたのは自明のことであるということだ。やはりここでも正しさは強調する気はない。

映画はすぐそこにあった。それがもっとも必然的な解答であろう。水や空気を摂取するように僕の眼にそれらが存在していた。それらは確かな存在者だった。人間が享受すべき対象がそこではありのままに描かれていた。人間の本質的側面がいろんな形で存在しえるということをそこで学んだのだ。

僕はそれらをギブバックする必要があったというまでのことかもしれない。つまり自分が生きているということを感じるためのひとつの行為だともいえるのだ。

みなさん、長く書きましたが、僕の必然が、あなた方のもとに届きますように僕は願ってやみません。現実はひどすぎます。だけれどもそれらを改変することはほとんど不可能でしょう。けれどもそこに座しないというスタンスを少しでも多くの方と共有できるのなら、世界はちょっと変わって見えるかもしれませんね。



by ningenno-kuzu | 2019-03-10 15:46 | 藝術の光と影 | Comments(0)
人はそんなに長くは生きない。途中下車する人も多かろう。つまり自死に及ぶのだ。それがどういう理論の下に繰り返されているか、僕には理解ができない。そもそも自然死というものがあるのか? いや、衰えるということが意味するように、なんらかの原因があることだろう。

不老不死を望んだ頂点に立った王族たち。だが彼らもことごとく死への道を歩んだ。その願うところは誰にも与えられることはない。そういう人類のあらぬあがきは何処に向かっているのだろうか?

生きていこと、これは物理学を応用すると奇跡的といえる。僕は問う。なぜ何世紀も前の時代に生まれたのではなくて、なぜ今なのだ? と。その偶然をどうイメージすればいいだろうか。今という現在があり続け、それが時の矢と呼べる物理的時間量として向かっているとしても、過去から未来へ向かってるかに見えるそれらは何を指すのだろうか?

物理学者が寄ってたかっても宇宙の創生を正しく記述することはできていない。問題はなぜ今だ? なのだろう。数世紀の歴史があるという人類が、現在にあり、また歴史を刻みこれから何世紀も存在するという。それが確かなのかどうかは僕にはわからない。

自然の力が人類を凌駕したとき、我々はその自然に敗北し、絶滅と歩むことになるのかもしれない。ただし未来に対する予測は誰にも不可能であると、物理学は告げているのだ。僕たちの未来を問う時、過去と現在と未来という順番で考えるが、また未来には過去現在の要素が重要であるかに見えるが、それはまってく違っているというのだ。予測不可能であると物理は説く。

僕はある人並みな人生を歩んできた。それは年齢だけのことで、誰しもがするように結婚し家庭を作り、子供を育んできたわけではない。そういう意味ではアウトローだったのであろう。ただそんな習慣は生物学的にはただしいともいえるだろうが、人間の人間たらしる知性とは必ずしも同義ではない。

過去を見、未来を見ること。また捉えようのない現在をどう規定するべきか? 現在は生きているということ以外に何も無いような気がする。つまり時間は生きている人間が感じていることで、過去に未来にそのものさしは使えないのだ。つまり時間は存在しない。生きているから老いるという方向で死を迎えるというエンディングで現在の時間感覚を脱ぎ捨てることになる。

by ningenno-kuzu | 2018-12-08 15:07 | 藝術の光と影 | Comments(0)

不思議

我々の存在そのもの。我々を取り巻く世界。すべては不思議にある。解明できない問題はその不思議故にあるのだろう。

目にする物すべては何ゆえにあるのか? 生きているとは何なのか? 生命とは。

人々の営為。物質的な物。空想。あり得ないこと。

地球、太陽、惑星、恒星。それらは何のためにあるのか?

人類を取り巻くすべての物は、現実離れした思考の下でしか問われないのかもしれない。

考えを巡らしてそれら不思議を問いただしてみても、こたえは遥か彼方にあるようだ。たどり着けない未知の領域。

僕らはそれらの前に打ちひしがれるしかないのか。

by ningenno-kuzu | 2018-11-25 11:08 | 藝術の光と影 | Comments(0)

行動の修辞学

人の行動はまるで何かに寄生しているようである。自分の行動で有るはずが、何かの価値観、若しくは必要以上に自分から離れた存在者として振る舞っているようだ。そこには自分はなく、何の要求の下になされた行動で有るか僕には理解不能で有るが、自分でないものに取り巻かれているというのはわかる。

行動様式から外れるということ。それがいかにも個性的であると勘違いしているのだろうか。同じ行動様式に支配された人々は、ある種の社会性を持ち合わせている。これらは両極端に見える。どちらに信を置くか。この選択は無益だ。自分であることの言葉。自分らしさというものは、誰しも持ち合わせているのだ。

極端に見えるそれらは実は根っこは同じなのだ。

言葉は行動である。だが人々はそこから乖離という形で引き離されている。自分の中のこころにみあった言葉を彼らは知らない。それは何も多くの言葉を必要としない。自分がもらった言葉をギブバックすればいいだけの話だ。その多くはごく幼い時期に与えられた。その言葉を探すべく行動するのだ。それら言葉を探して行動するのだ。

本に書かれた言葉から自分の言葉を発見しそして見違えるような自己自身の行動を行えば、それ自身が真なりやといえる。それら発見が待たれている人々が居たら、自分から行動しよう。その言葉は伝わるのだ。

by ningenno-kuzu | 2018-09-13 18:44 | 藝術の光と影 | Comments(0)
僕は長いこと働いてきた。これからも働くだろう。働くことで得る事のできる一番身近なものは、それはお金だ。誰しもお金が大事だ。母は命に次ぎにお金が大事だと言い切った。そうかもしれない。じゃあ僕は自分の命をも軽々しく考えている
人物だとしたら?

そう、そうなのだ。でも僕は現実を否定しない。お金が大事であるということも否定しない。実際において僕が今まで生きて来れたのもお金があったからだ。だがすべてじゃないだろう? それがすべてだと思っている人はいるだろうか。

僕は金儲けのために生まれたんじゃないぜ、と言い切れる。そんな道行きを暮らしてきた。非常に馬鹿な生き方だ。作家でいうと無頼派みたいなとんでもない人生を送っている。

僕は稼いだ金は使いきる。馬鹿なしょうぐんだ。それで自身が困ることになる。だが働けばいい。それだけのことだ。働けば得られるもの。だがお金があっても得られないものがたくさんある。僕の血縁者、それはお金が生かしたとしても、彼らは彼女らはお金で得られるものではない。

僕のこころをときめかさせた女性も、お金で買えるわけじゃないのだ。こころ深く望めば何がみえてくるだろう。それは絶望もしれない。でもね、どんな苦楽もおしなべて自分のこころを豊かにしてくれる。得難い記憶や夢の様な世界。

夜空に昇る月影。星々のイルミネーション。静まり返った街の灯。悩みや苦悩の日々をそれらはやさしく帳消しにしいてくれる。まあいいじゃないかと思わせてくれるのだ。

僕たちは日々を生きるとき、なにかを信じている。信ずべきものはもしかしてどこにも存在しないかもしれないのだ。でも何一つ信じられないとしたら、それはそれで不幸かもしれない。確たる証拠はなくとも、微々たる想いで僕たちはすくる時を感じる。そうさ、何事でも良い。自分の信ずる道を歩むべきさ。それはちょっとした闘争なのかもしれない。

でも自分の人生は自分で切り開くしかない。誰一人、自分の人生を歩むことが出来る人はこの世に存在しいないのだから。

by ningenno-kuzu | 2018-08-04 19:20 | 藝術の光と影 | Comments(0)

僕のパラレルワールド

僕はあるときだ。列車で会社に向かう途中にうつらうつらとした。よくある通勤途上の睡眠だ。だがその時は違った。夢をみたのだ。

その夢は現実に通じていた。夢らしき何の感慨もない夢だったのだ。単に人が入れ替わるなりして、夢は続いた。それはほんの一瞬だったりした。

夢は夢なのだが、現実に通勤している夢を見たのだ。現実と寸分たがわぬ夢だ。ただその前後が違っていたり、登場人物が現実とは違っていたりして、つまりは少しずつ違うだけですべては現実様式だった。

そして僕はふと考えたのだ。この現実は夢と夢らしきものとの間のちょっとしたパラレルな世界を示しているのではないか? そういう疑念がわいてきた。その僕の認識はおかしなものかもしれない。でも現実と夢との間にわずかな破れが生じて、僕は違う現実を見たのではないか? そう思えた。

その世界は誰でも見ることは不可能な世界。パラレルワールドだ。違う現実が有るということ。そんな僕のふざけた想念がそういう考えを生んだのかもしれない。だが直ちにそれが間違いだとは言えないのだ。少なくとも僕は夢はただの夢だと断言できない。が、しかし、その夢をもう一つの現実であるとも断言できないのだ。

そうは言ってもそれらを証明することは不可能だ。逆もしかりなのだが、そもそも逆くといえるほど確証もない。あやふやすぎて申し訳ないのだが、それくらい僕の中の印象としても確かではないのだ。だが、その世界は例えば物質と反物質に置き換えられようし、また比喩などで使われるような、ポジとネガなのだ。

こうしてあやふやなまま筆置くのもなんだが、めいめいでそういうことを考えるきっかけにしては欲しいと思う。

正しさ、もしくは事実というものは積層された記憶のひとつかもしれない。僕ら人間の記憶媒体とは限られた反応にみられる人間の限界だろう。僕らの見たり聞いたり感じたことはその記憶術にいよって限定され規定され、制限される。実際にあったと認識されるには一体どんな知性の持ち主に許されているというのだろうか。

僕がここで集約すべき言葉を投げかけることが出来るとするなら、人間は生きていると色々あるね、ということくらいだ。つまり僕のような考えを持つ人物も現れるということ。そこに正しさは持ち合わせていないわけだが、夜長の夏に思い浮かべてみるのも良いことだろう。

by ningenno-kuzu | 2018-07-30 21:06 | 藝術の光と影 | Comments(0)

天才ここに在り。

人と人は違う。同じような風体をしていても同じ国籍でも違う。僕の能力を凌駕する人はいないように誰しも違いがあり、彼ら彼女らにはある種の特別な存在者として存在している。ただその違いが天才と凡人を分ける。だがそこには正しいさや、その能力における優劣の差はない。いってみれば価値観がどこに存在するかによって人々は何者かに分けたがる。

そもそも人間の価値とはなんだろうか? 僕らにできることは生きることのみだ。その間に取り交わされている営為は、誰しも似ている。ただその取り組み方が違うだけで、僕らは似たような人生を歩む。基本的に似ているのだ。それらはすべての人に平等で変わることはない。だが人々は何らかの優劣でもって行動している。人が人と接するとき、その優劣や好みによって違ってくるのだ。その違いは決定的だ。わずかな違いがその人の行動原理を支配するのだ。

僕は何らかの天才であろう。それは誰にもわからないところでひっそりと咲いている。目立つ人間が天才で有ることはそうそうない。また社会的な成功が天才とリンクされているわけではない。誰しもが天才と呼んだビンセントヴァンゴッホ。彼は生前一枚しか絵は売れなかった。それも弟のテオを介してである。テオは画商をしていたのだ。彼からの援助がなければ、ひょっとして現在のゴッホはいなかったかもしれない。ゴッホの絵は今では何億円もする。極貧の中でゴッホは迷わず絵を描いた。この天才は異常だとされるが、彼の残した絵画は恒久的に価値を持ち続けるだろう。

天才はそうして天才だと認知されるには何世紀もの年月が必要な場合もある。いやむしろ天才こそ現代には成功を収めることはないのかもしれない。

激烈な天才的思考。それらはどこに注がれているのだろうか。まだそこには誰もいないだけで天才がいるがいる限り、その天才の系譜を遠い未来に届けることになろう。

by ningenno-kuzu | 2018-07-01 11:20 | 藝術の光と影 | Comments(0)

天才

あなたは天才ですって? そうですよ天才です。何の天才? 天才にもいろいろあると思うけど一体あなたは何の天才でしょう?

僕ですか? そうです、あなたです。それは困りましたね。天才が天才を語るには面倒な手続きが必要になってくる。天才は天才と名乗るだけでそれほど意味はないですよ。

困るのはわたしですね。わたしの好奇心が満たされないじゃありませんか。他人のことは放っておくのが一番ですよ。誰が誰であるなんて大した意味はないですからね。それに君は僕のことを知らない。いやむしろ僕のことを良く知っている。そうではないですか? 

わたしがあなたを良く知っている? そうです。ご存じのはずだ。いいえあなたとはまるで親密な関係になったことは一度もありません。そうじゃないですか? そうですね。我々ははかない生き物で、通り相場からいえば二人ともこうして会えることも奇跡といえます。また誰が誰を知っていると言えましょう? 天才たる僕がことに挑んでも僕らの関係は何もない所から出発して、いずれちりじりバラバラに双方とも離れてゆきますね。記憶は確かな物ではありません。そうして互いに忘れ去られることでしょう。

ずいぶんだわ。わたしがわたしであるようにあなたが天才であれば良いことですわ。そうは思わない? そう思うでしょ。ただし何の天才かは定かじゃないな。さてわたしは午後の睡眠に入るために自宅に向かいます。それは結構なことですね。睡眠は人のリズムを刻む効果的な人間の営為ですから。

ではさようなら。こちらこそさようなら。

ところであなたは何の天才? 

by ningenno-kuzu | 2018-05-20 14:14 | 藝術の光と影 | Comments(0)
オロオロと歩く人を見つける。何をしているのだろう? 歩いているだけなのだ。だが彼女、もしくは彼は心の中にある暗い想念を抱いている。そんなことは見かけ上、わからぬことだ。自分の身なりや息遣いに追われて先を急ぐかのようだ。老いるということ。今のままではおれないということ。すべては地獄にきすということだ。

人々が列をなして待ち続けている。それは在りもしない幻想を見るためだ。直截的に言えば彼ら、または彼女らには明日はない。死すべき明日はあっても現在にとどまることは不可能だ。鏡を見て変わりゆくおのが肢体に嘆きを込めるのだ。明日はないかのように今日振る舞い。明日は現在にある悦楽のために帳尻合わせをもくろむ。

ただ確かに見える大地もスポンジようにふわふわと揺らぐ。誇大妄想は確かな大地を演出する。またとないといいながら昨年の実りを信じ、叶わぬ敵はいないと口々に囁きかける。人間らしい愚かな行動も、すべてはどこまでも許されるかのようだ。

人が続ぎつぎと倒れ朽ちてゆく。ぼくは指をくわえてそのさまを眺めている。痛みは走るが、そんな事態を誰が修復できるだろう。あまつさえ見知らぬ人々だ。声をかけるにも彼らもしくは彼女らは死んでいるのだ。

生きている不思議を問いかける罠。濁り酒を手にして歓喜する駄馬。祝杯に埋もれて、我々は目の前にあることを忘れる。その忘却の彼方で僕らはダンスを踊っている。神妙な顔つきで僕らは死の前にある忘却を求めさすらうのだ。

取り返しのつかない地図を開いてしまった。そこには何も書いていない。そこにある塊という名の白紙がある。それは白いだけで、やはり何もないのだ。自分でやり方を考えるしかない。複雑な迷路を歩いている。地下道があったりする。暗い道だ。頼りのおひいさまも、天候には逆らえない。

地のそこからマントルの何とも言えない嫌味な音が聞こえてくる。わずかな光がそこから抜け出して、宇宙の創生までつながっているという。次第にその明るさもなくなって、はたと自分が一人だと気づく。家族も友人もそのほかあらゆる関係を持った人々とも自分は一切がっさい関係ないと気づくのだ。

問いかけても誰もこたえはしない。無の中でそれらは勝ち誇っている。そこにいきどうりを感じる刹那に、気が付けば人類史のよく似た御仁が自分の地獄とたがわぬ生涯を終えたと知る。もうずいぶん前だ。

こんなはかない夢があったろうか。こんな切ない物語があったろうか。僕らは箸休めで腰かけて、やがて灰になる運命だとファンファーレはつぶやく。ラッパの違いはあれどマウスピースで吹かれた曲は世の果ての旅だった。

誰もたどり着いたことのない先には何があるというのだろうか? 何もないというのが本当のところかもしれない。

by ningenno-kuzu | 2018-05-19 19:47 | 藝術の光と影 | Comments(0)
僕は夢に生きているのかもしれない。夢とは? 僕は生きているのだろうか?  それぞれの問いは僕に浮かぶ心の中の映像だ。現実とは何であるかということに起因した問い。こたえを探す方が難しい物がある。生きていることが、生きていることそのものが、判断することになる自己自身は瞬間とその連続体の中でとらえられる。悲しくも生きることそのものには何の意味もない。我らの生きるは生体としても数々の論理が備わっている。時間軸は元に戻らない。一定方向に生体は突き進む。人が人を規定することはできない。事実上できないのだが、ある種の塊であるといえる習慣で我らは選ぶ。

一定方向に世界は動いているかに見える。だがそんな刹那的な看過しえる状態ですら我々は確固としたもの、いやその中にある矛盾を放棄してうごめいている。誰かをとらえることは実際のところできないのだ。だができたとする前提が我々の価値観に備わっている。そこで人々は議論するのだ。それは正しいからではなく、正しさを求めているからではなく、他に選択肢がないからその中でいろんな白熱した議論が行われる。

だがどういう話でも確かな物がないのだ。多くが選んできた現在を歴史的に見てとらえることのできる個人は存在しない。僕らはただただ生きていることしかできないのだ。そこで仰ぎ見る世界は実は不透明なものであると認識することはない。大地ですら地震を起こすように、決まりきった法則は人間にはないのだ。そこで不安や猜疑心に苛まれ、人々はやいばをむき出しと自分と違う相手に時としてその刃を向ける。

これらは心理学的に導かれたものではない。つまり人間が人間を理解する事はないという前提のもとに感じられたものである。

生きることの不安定さを人間はいつも感じるわけではない。意識が時にのぼった所で我々は自分を観測するしかできないのだ。日々の暮らしが何であるか、疑問にわくことはたいていの人にはほとんどないのだ。とはいえそのことが別に間違っているわけではない。人間には理解できることに限界があるだけで、生存する限り誤謬ははかり知るものではない。

夢は現実と似ている。似ているというというのは夢が求めているものが現実離れしているのに個人は夢に時に救いを見ているのだ。白昼夢やそういった想像は人間の心の慰めにすらなることだろう。大きな枠で考えればポジとネガの関係性みたいにそのどちらとも個人でないとはいえないのだ。またその二つを分離することはできない。その二つが我々を生かしていて、共通の命題を持つことができるのだ。



by ningenno-kuzu | 2018-05-12 11:56 | 藝術の光と影 | Comments(0)

自画像 paint by 魔ギオ


by 穴田丘呼