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めぐるある種の考え

じっと待っているのはいいことかな? ぼくは待ち続けてくたびれたよ。待機していた。いつでも飛び出せるように準備は万端でね。とはいえ僕一人がこの世に生きているわけじゃない。つまりその関係性においてぼくはいつでも逃亡せずにはおれなかった。それは敗戦を意味するわけじゃない。勝利ではない。だが負けてもいなかったのさ。そこにはまだぼくの自由があったんだ。ぼくは体躯という物がどうやら次第に弱ってきている。それを知ったのはごく最近だ。努めて自分をこき使ってきたわけじゃないが、体中が悲鳴をあげだしたんだ。

ぼくは旅を続けて来た。長いか短いか判断は分かれるところだ。ぼくは立ち止まったり歩いたりした。ぼくの感情に一番奥深いところまで行ったこともある。だが引き返した。最終的には引き返したのだ。ぼくの現在がどうあるかなんて誰にもわからない。僕自身がわかっていないので、説明のしようがない。現在はただダンマンに生きていると言っても構わないが、ぼくは記憶喪失者のようにそのことに対しては言及は避けよう。すべてを包んでくれる大きな力、つまりエネルギーを感じてぼくは今ここにいる。

自分のことを考えてもみた。自分のこれからの道行を考えはしたのだ。だがそれは結果的に幻想に過ぎなかった。つまりぼくが選んだにも関わらず、押し流された流刑者のようにぼくに返ってきた。一体僕は何の罪を犯したのだろう? ここまで来たからにはもう戻ることはできない。ほとんどここは地平線の果てに近いのだ。だたぼくは人間の持つ尊厳だけを頼りにしている。起立する尊厳だ。個々に交わりはしないが、確かに個人を特定できる尊厳だ。

光の層がぼくを特定したのかもしれない。それは素粒子であって位置などは不明だ。ただ人類が生き抜く力を授かったそんな眩い光だ。恐ろしい自然活動。ここから誰も逃れることはできないのだ。それに対する不安は人間の中にICチップのように埋め込まれているのだ。誰も気づかない不安は戦争でもあったり、それに伴う肉親の死であったりするのだ。すべて終了するには人類の延々と繋いで来たチェーンが途切れるときだ。

大きな流れの中では誰も何も逆らうことを知らない。微粒子が漂うようにわずかな、つまり素粒子レベルの絶え間ないシグナルを感受センサーがどこかに我々をつなぐ糊のようなものとして地下水脈に生き続ける。だがしかし人間は自然には勝てない。自分に備わった自然や自分の周りを取り囲む自然には人間は勝つことなど不可能だ。くらい旅路がそう言っている。

大きな塊がある。混沌とした塊だ。そこにぶつかってみた。だがそこには誰もいなかった。生物として脈々と生き続けているホモサピエンスがいただけだ。そうしてぼくは孤独を感じ、またあるきはじめるのだ。

by ningenno-kuzu | 2017-08-14 13:44 | フィクション | Comments(0)

言葉で世界をKAIZENする

ネットの世界に通じるとなにか目新しいものはないか、と好奇心を満たしてくれる。だがそれら情報は限られたものであり、歴史性を感じさせないステレオタイプの情報で占められているようだ。同じ文言の言葉で検索をかけたら、今ではもう目にすることのない情報へと変化していた。つまり検索に引っかからないのだ。深く調べてゆけばそこのそこに見られるかもしれないが、事実上それらは消されたのだろう。多くの人が関心を失ったためか、そこになんらかの価値観で牛耳られたかして、検索に引っかからなくなったのだろう。事実はそう簡単にはわからない。

人と人の間には言葉がある。その言葉がある種の人間関係を産み、同じような言葉で二人以上の人物は会話する、もしくは何かを執り行う。どんな職業に就いても会話のない職業はない。つまり言葉で仕事をしているのだ。これこれはこういうものだ、という取り組みが仕事のあり方を決める。政治家であれ科学者であれコンビニスタッフであれ、使うのは言葉だ。警官は偉そうに犯罪者に対して言動を行うのかもしれない。すべては人間がやっていることであり、立場が違うだけで主従関係みたいな構図ができてくる。

ぼくがもし起業したとしたら顧客に対して対等な立場で仕事をすることになろう。顧客が偉いのではなく、そもそも人間同士であるからミスもつきもので、それは会社側にも顧客側にもいえる。だから顧客が偉いわけじゃないと、対等な立場で仕事を進めることになろう。お金さえ出せば偉そうにいえる風潮をなくすことに心血を注ぐことになろう。だがしてそうした会社があるだろうか? まずないと思う。ぼくが言っていることは極端に見えるかもしれないが、演技されたように主従関係で繰り出されることばにぼくは違和感がある。またサービスは誰がしても似たような物になるネット文言で占められている。確かに定型文は便利である。ただそのには人間の匂いがしない。そんな文章を書くのならメールで送るのなら人工知能にやらせた方が効率的だ。ただメールなどを受け取る側としては、少なくとも1人以上人間がメールという手段でコミュニケートするのであれば、生きた言葉が読みたいものだ。誰が書いても同じような文章には、その書き手には、ぼくはバカの称号を与えずにはおれない。

言葉の使い方には実際にコミュニケーションをとる際とても重要な要素を含んでいる。ぼくが2010年に行ったユーラシア大陸横断旅行もまるで言葉が通じない相手に対して、ぼくはあらゆるコミュニケート方法を駆使した。ロシア語の書かれたガイド本、拙い英語、表情、手振り身振り、車の趣味、ありがとうというロシア語etc。ぼくが実際交わした会話は口で発した言葉はそんなに多くない。それでも楽しく旅行ができたし、ロシア人やポーランド人たちには、ぼくが日本人という中の代表選手とでも思われたろう。外国人たちはみな親しみやすく(僕自身が懐が深かったからだろう)飲んだり食ったり、本などは読む暇がなかった。

つまりことばというのは書き言葉、話し言葉だけでなく、ボディーランゲージというのも実は多くある。だから旅するときにはその人の人間性が大切なのだ。僕みたいに人間対して人見知りをしない、並々ならぬ人間に対する好奇心がある人物には、相手にとって接しやすいのだ。そういう手法をすべての人が理解しそう振る舞えば、無駄な争いをせずに済ますことが出来る。つまり世界をKAIZENするにはその人のコミュニケーション能力に依存している。言葉の通じない相手に対してどう振る舞えばいいかということを自分の中で捉えて、そこに同じ人間を発見すれば、ぼくらはすぐに仲良くなれるだろう。人間性が世界を変え、コミュニケーション能力が良き物に使えることができたら血で血を洗う世界から決別出来るはずだ。

by ningenno-kuzu | 2017-05-04 19:02 | 日記 | Comments(0)
ぼくがこの世界で何もできなくとも、ぼくのある種の精神性が何処かで細い糸を紡いでどこかに存在しある一定の時間は有効かもしれない。
人間のできることをぼくはできなくてほとんどの人ができないことをぼくは出来るが、それを実際やるにはぼくの一生を費やさずにはおれないだろう。

何もできないイコール無ではないのだ。そんな想いがあるが、何分ぼくは自分ごとに無頓着だ。自分のし死さえ笑い飛ばせるくらいぼくは自分ごとに対してあまり関心がない。とはいえそれはわずかなことだろう。少し人と違うだけで実はそんなに違いはないのだ。

人と人を繋げるというのは難しいことだ。ぼくと人が繋がることも難しい。ぼくは一人でできないことをする馬鹿で、人の協力を仰がなくては本当はダメなのだ。とはいえぼくはその前にあれこれと考えてしまう。一種の妄想だ。事実ではない絵空事だ。ただしぼくは創造というのはそこから生まれてくると思うのだ。だからして諸君。待っていてくれたまえ。

by ningenno-kuzu | 2017-03-25 07:50 | ブログ | Comments(0)
誰だって戦争反対と言える。日本人の多くは反対だろう。それは本当のことだと思う。ましてや一国のトップである安部総理がそれをしらないわけがない。総理本人自身が戦争は絶対に反対するだろう。このことも事実だと思う。だが世の中そうシンプルにできてない。安倍総理を右翼だというアホが居る。ぼくから言わせれば笑止千万だ。彼はただの日本人だ。それだけだ。しかも彼は日本という国をなんとかしなければいけないと考えている。このままじゃやばいと。だがそれを運営する側、例えば自民党議員が安倍総理と同じ考えの人は全くいないだろう。恐らくそれも事実だ。そんなことがひとつの国にあり得るか? 
世界各国も実は同じだ。世界のトップと所属する団体の意見は違う。それをまとめ上げるのが総理の役割だ。首相の役割だ。大統領の役割だ。もちろんトップはトップで自分の考えがある。しかし安倍さんの場合、自分の考えをゴリ押ししない。人の(党員)の意見を聞いたり、経団連の意見を聞いたり、また外国の経済学者の意見を聞いたりする。それが安倍総理流なのだ。それをいちいちバカが突っ込みどこだこうだというのは勝手だが、いわゆるドストエフスキーの独裁者の孤独じゃないが、トップは孤独だ。大臣たちは好き勝手に発言するし、それをコントロールすることはどんな人でも不可能。だったらどうすべきかといえばなんらかのアクションを起こし、それが例えば経済的に成功したならそれは総理の考えに党員が経済界が近くなる。つまり安部総理は行動の人なのだ。平和平和と念仏を唱える人じゃない。また彼は不戦の誓を立てた。それは自然なことだろう。また関係各国に配慮して靖国神社には総理大臣としてお参りしていない。この事実だけでも彼が右翼じゃないのはわかるはずだ。そんな思想遊びをしていない。あくまでしそうというのはその人に任される。つまり個人を確立していない人は思想団体などに頭が上がらない。また思想の虜になる。そんな右とか左とかに人間は位置していない。思想は人を安易にカテゴライズするには便利な道具に過ぎないのだ。それを信じている学者や偉い先生方は何を考えているか知らないけど、そういう思想発揮に余年がない。ぼくから言わせればただのアホだ。日本は戦争はできない国だ。それには条件がある。日本を世界有数の国にしたければ、またはしたい人は戦争等しない。日本は資源国じゃないので戦争=滅亡、に近い。このままの経済大国第三位にはおれない。だからして安部総理は戦争等する気がない。もともとないのだ。それを好みの政党に活躍して欲しいから戦争法反対と抜かす。バカじゃないの?どこが戦争法なんだ。ありえない理屈だ。このことをほんとうに信じているアホがどれだけいること
か。かなりいる。相当な数だ。またそいつらは自分を正しいもしくは正義の味方だと思っている。これが現実なんだ。自分の頭で考えたとしたらそんな考えは間違っているとわかるだろう。ところが民衆は考えない。ぼくは呆れるが、自分が正しいと考えている人に何を言っても無駄だ。これは恐ろしい事実だ。実はそんな人々がファッショに簡単に騙されるタイプの人たちなんだ。考えない人は騙される。つまり現在の状態にどっぷり浸かりきって固定概念から離れられない。嘘を信じて事実を信じない。ぼくがよく人類は救いようがないと思い発言するのもそのせいだ。だが分かる人にはわかる。が少数派だ。たとい安倍政権を支持している人の中にも実は考えない人が多い。困った話だ。ぼくは半ば諦めているが、救いようのない人々にも生活があると言うことはわすれない。それは業火に焼かれる身をさらしまるで何もなかったように振舞うことを習慣づけられたひとつの思想だ。日本の伝統文化とは違うところにある。経済、つまり金さえあればなんでも出来ると思っているアホのために世界を変えようと地獄から人類をすくおうと努力している人のことを忘れてはならない。

ながくなったのでこのあたりでヤメとくが、ぼくは頭が痛いよ。

by ningenno-kuzu | 2016-08-20 17:46 | 日記 | Comments(0)

たまには考えてみよう

たまには考えるのも良いことかも知れない。動かしがたい事実。しかしそれは本人だけの事実だ。事実をどう捉えるか。それは個人の裁量にかかってくる。しかし、それはなんだろう。動かしがたい事実とはなんだろう。かりにそういうものがあったとして、それを誰かに伝えないとぼくらは忘却の波に足をすくわれる。その手続が困難なのだ。

人から人に伝わる伝言ゲーム。ご承知のようにゲームでは最初の話者と違った内容になってしまう。これは防ぐことはこんなんだ。込み入った話であれば余計にこんなんだ。だけれどもぼくたちはコミュニケーションを日常普通にとっている。しかしそこには正解はない。個々の事実、それも誤認かもしれない事実があり、やはり伝言ゲームが続いてゆく。それは仕方がないことだ。

じゃあぼくたちはいつでも正確でないことをしているのだろうか。簡単に云えばそうである。しかし生きている上において支障がなければ無視できる誤認である。だからして人は自分であることが重要で多様な価値観を認めつつも自分の意見を持つということが必要だ。ぼんやりと語っているが、自分の意見は即ち自己自身とは限らない。自己は捉えようのない生命の総体だ。その結果、生まれたりするのが自分の意見だ。

こうしてぼくもたまには考えている。ぼくの言説が正しいか正しくないかなんてわからない。ただぼくはぼくの意見を述べているまでだ。今日は午後から雨が降って憂鬱な気分なのだ。明日には止むだろうか? それはぼくにはわからない。PCスクリーンの向こう側は雨であったり曇であったりして、ぼくには何がなんだかわからない。要は天気すら現代文明は当てる事ができないのだ。

明日に雨が降らないように祈念して。 穴田丘呼

by ningenno-kuzu | 2016-03-18 17:57 | ブログ | Comments(0)

素晴らしきこの世界

この世界はなんて素晴らしい世界なんだろう。人が生まれて死ぬ。このシンプルな世界。何も悲しいことなんてないじゃないか。きらめく星々。夜空は静かだ。月の満ち欠け。海のさざなみ。風が吹く。暖かな季節。小鳥のさえずり。森の木陰。街の灯。便利な乗り物。歩く人々。街は賑やかだ。さすらい人が訪ねてくる。命なんて軽いものだ。そこら中にある。誰も知らぬ。言葉もない。嗚呼なんて素晴らしい世界なんだ。ぼくはバラ色の人生を歩んでいる。みんなと共にその船で遠くまで行くんだ。力なき人はある人に助けられ、誰しもが死への旅へと向かってる。輝けるお星様。明るい太陽。何処もかしこも血なまぐさい事件が起こるが、それとて銀河は笑って見てる。何処まで行けばぼくたちはぼくたちの終りがあるのだろうか。なんて幸せ者だろう。幸福の王子のようにぼくは幸せだ。美しい世界がキラキラと輝きを放っている。ほんの少しの憩いの時をぼくたちは当然だとばかりに請け負っている。そうさこの世界は何処にもない世界。ひとつきりの素晴らしい世界なんだよ。
by ningenno-kuzu | 2016-01-13 00:00 | music | Comments(0)
 ぼくは絶望している。それはあくまで未来をのぞんでの話だ。もしくは人間の営為をのぞき見ての話だ。悲しいかな人間は愚行を繰り返している。その愚行をぼくが止めることができないからぼくは絶望しているのだ。ぼく自身、のんきな性格でこれといった問題を抱えているわけじゃない。ぼくは他の人々と比較して恵まれてもいるのだ。ただし全面的に恵まれていたわけじゃないが、やはりぼくは幸運だったといえるだろう。

 人は生きて誰しも一度は挫折を味わう。それは色でいうと救いようのない絶望色だ。だがそれ一辺倒ではなく、そんな人々も暖かい部屋に守られ時にはくつろいだ雰囲気の中で救いをそこに見出すこともあるのだ。すべてを否定的に見ることなど誰しもかなわない。それがひとつの手だけで庇護を受けただけだとしても。

 救いようのない世界はぼくの中にある。それは変わらずいつまでもそうだ。だからといってぼくは単純に絶望したわけじゃない。現実というものがあるとするならそれらは時に業火となる。そんなところに住む住人は何処に彷徨うだろう。時に見放され時に守られ時に裏切られる。ぼくらは答えを待ち望むが、最先端な時系列の下でも正しさは確認できていない。

 ぼくはフラフラと思念を転がす。夢のような映像をまたたきに見終え、それがなんであったかことばに起こす。確かな物はなくとも確かであることばはある。それがどんな先を見渡しているか誰にもわからないが。

 そんなこんなを人々に伝播させてどうなることだろう。ぼくのようなノイローゼ頭を作り上げてなんになる。そうおもうんだ。限定的に時間軸を点描画のごとく小さな裂け目の中で物事を見るべきかもしれない。そうしないとぼくのように絶望感に苛まれ無力感に打ちひしがれてしまうことだろう。何かを変えるのじゃなくて自分が変わること。そんなことを遠くから念じてささやかな晩餐を迎えることが、せめてもぼくの力ではないか。

 次世代にどうしてバトンを渡すか。そうしてその力動方向を少しは念頭に入れて力を加えるべきじゃないかな。とはいえぼくは無力で誰の為にも生きていないという。ぼくがそんなだいそれた考えに至ったのもそれはぼくの幼児期が比較的まともな恵みで形成されていたからだ。ぼくには得たい物など本当のところはないのだろう。ただこの世で何らかの発言権を持つには最低限必要な物事をやり遂げねばならぬが。

 ぼくだけ絶望していたい。だから誰も絶望しないで欲しい。ほんの瞬間、甘いキャンディーを食べた喜びで絶望を消してください。ぼくはそう望む。問題があるにはあるが、君にもあるが、それが必ず時間とともに解決されることをぼくは知っている。だから君よ、絶望など気が早い。1000年の後、君の絶望が観測された時、始めてそれは絶望になるのだから、ぼくのように光速で歩まないでください。ぼくの絶望は死ですらぼくから切り離すことはできない。

 ぼくはこの世界にある幸楽というものから後退りをした。引き返せない深みにはまりかけている。ぼくは一人ここに居るが、ここから先のことは全く知らないのだ。さあ、君よ。ぼくの屍を踏んで高く空をかけてください。絶望なんてしないでください。そんなものが似合うのはぼくのようなイカレタ頭だけだ。少しは自分を大切にするように。だから君よ。誰からも奪われない物を持て。

by ningenno-kuzu | 2014-11-24 18:59 | 藝術の光と影 | Comments(0)
 ぼくができること。それはこの世界にないかに見える。事実そうかもしれない。無力感が漂うこの終末。終わったわけではないのだ。命一個分ぼくらは聡明な額を抱えている。とはいえぼくたちは何にその知恵を使い果たそうか。無気力なぼく、支配された系の中でぼくは泳ぎを忘れた金魚のよう。もう何もないかもしれない。だったらどうすれば良いのだろうか。何も語ることのない口。何も見ることのない眼。誰のことばも聞くことのない耳。そんな物を引っさげてぼくはどうにか歩いてきた。転んでも死にはしなかった。それはどうしてだろう。運が良かったのだ。偶然ではない必然がそこにあった。

 ぼくはことばの鎧を着て、そうしてことばの武器を得た。それにしてもそれを知っているが故にぼくはかなり致命傷を得た。立ち止まるには十分な傷を得た。回復不可能かと思われた。しかしここにある。

 世界は殺し合いの渦中にある。これは止まりそうにない。延々と繰り返して来た人間の営為なのだ。ひとりの優しい娘がこれはおかしいという。それはそうだとぼくもいう。しかしながらこれは人間に備わったひとつの能力なのだ。生きるとはそのように残酷であり、生は死者を作ることをやめない。これが事実ならばわれわれの努力はいったい何物だろう。アメリカは聖戦だという。イスラムは聖戦だという。この違いはない。

 アフリカは飢えているという。しかしながらそれは自然と人間に与えられた供物なのだ。われわれは自然から独立したかに見えるが、われわれはひれ伏したままで、決して自然から勝つことはできない。また自然がわれわれにとって大切なものでもない。エコは経済だ。エコは商品だ。お金になるひとつの言い訳だ。金権主義の塊がわれわれ先進国にはある。しかしながら日本に古くは穏やかな文化的な習慣があった。それを失った民は何処にゆこうか。

 近代国家にそびえる革新的な技術のおかげでわれわれは便利な生活を得ている。しかしながらそんな生活は長い時間軸の内では僅かな物なのだ。失う前にやるべきことがあるはずだ。残す戦い。誰も傷つけることはない戦い。ピストルを持たず戦地にゆく。少しずつ最新のあらゆる物理的な恩恵から後ずさりするのだ。ほんの少し。見えない力を解放する。便利をやめることの代わりの物。他の便利さ。そういうネットワークの構築を考えないといけないかもしれない。失われた仕事を取り戻す。人間対人間を取り戻す。

 であるけれども革新的な技術はわれわれを蝕んできただけじゃない。自然との別離を考えさせられた。自然をすべて驚異的に打破するのだ。自然との別離。自然を淘汰すること。自然をコントロールするのだ。先の話とここの話はまるで違った角度だ。がしかし極端から極端にわれわれは魅せられる。自然回帰か自然を淘汰か。自然を無視し延々と二酸化炭素を出すこと。それは悪くはない。もちろん善でもない。自然に対する態度で善悪はない。むしろ自然は人間にとって時に害悪に過ぎなくなる。自然に勝つことはできない。しかしながらエアーコンディショナーはわれわれの生活を一変した。

 ことばは詰まる。ことばは続かない。果がある。ことばでできることはある。しかしそれを明瞭にかざし日の光のもとに影絵を映し出すことはほぼ不可能だ。伝達から伝達へ。それが可能なのはある種のバックグラウンドがいる。所属番号がいるのだ。認識番号を得たことばは重要視される。実際重要でなくとも、立場は重要だとそう呟くのだ。ことばの先のその先。あるいはそのことばだった時。丸裸なことばだ。原石に近いことば。それから時間を経て在るとか無いとか。中身の問題でなくなる立場は不特定多数の人間で覆われる。

 そうして無きもの在るものは選別される。であるが、ことばを持つ時。それはひとりではない。ひとりではことばはできない。ありえない。個の複数の集まり。そこから拾うようにして集まる光子の束。どちらにしてもそれらは伝達可能な物質となる。思ってもいないことばが遥か彼方に届くこともある。書き物は特別ではないが、書かれた物は時に特別になる。本を読み、本から得ることのできるあるもの。そららはぼくが落ち葉拾いのように一葉一葉拾い集め複雑に絡め、そうして見える程度の形あるものにして置いて立ち去る。そこにはまだ光があったと受け止められるだろう。

 四半世紀の書き物はある。どこかにある。しかしながら触れることも読むことも許されていない。ごくわずかな物語とごくわずかな語りだけ世は受け付けた。もう惜しむことはないが、それらは如何様にも変化し、長い時間を持って誰か知らに目撃されるかもしれない。空白のページは埋まることはないが。自助努力なんてぼくのしょうぐんではない。がしかし生命の前線にいるとするなら、それがまだ消えていないなら、ぼくはクズらしく振る舞いつつ、最善の道を模索することだろう。

 その命があったなら。ぼくが人類と共通の命題を模索するなら。ぼくに考える力があるのなら、ぼくは前に進み、そうして後方をみつつ、何らかのアイデアを指し示すことだろう。

by ningenno-kuzu | 2014-11-02 16:03 | ニュース | Comments(0)

自画像 paint by 魔ギオ


by 穴田丘呼