人気ブログランキング |

芸術の起業化

芸術ということを聞くと、たいていどの人も同じような印象を受けることだろう。ぼくの認識はまるで違う。生そのものだと考えている。あらゆる現実あらゆる事象、それが芸術と考えているのだ。だからぼくはすべての人の営みが芸術だと思っているのだ。見るもの聞くものすべてが芸術だと。そういう認識はぼくだけだろうか?

それはわからない。人間が作り出したものすべてが芸術と思うのは馬鹿げているだろうか? 大衆は考えてもみないだろう。大衆はそもそも考えるということをしない。ぼくとの現実認識の乖離は大きいのだ。とはいえそれは彼ら大衆が劣っているからではなく、ぼくが恵まれていただけのことで大筋でぼくと大衆を分かつ生物学的な違いはない。というのもぼくも数多多数の人と同じような行動様式を持っているからだ。ただしぼくは大衆とカウントされても、また違う視点に立ち戻ることが出来るだけなのだ。つまりぼくは自分だけの考えに忠実なのだ。言ってみれば孤独を恐れないのだ。

閑話休題。ぼくは優しい一人の女性を求めている。求め続けた。でもぼくは独身である。それはぼくの男性としての行動様式がまるで違っているので、たいていの女性はぼくが愛すべき女性であると思われているとは考えてもみないのだ。ぼくはわかりやすい男性ではないのだろう。たとえネット上で好ましい女性だなとは気づくことが困難であるように現実でも困難だろう。ぼくは行為を行う。でも女性はありがたいと思うだけで、もしくは慣れているだけでぼくが好意を持っていると確信できない。ぼくは女たらしではにのだ。いわゆる好きだと言ったのはたった一回だけだ。それも20歳の時に付き合っていた女の子が私のこと好き? と聞いてきたから好きだと答えたのだ。本当にそうだからそういったのだ。愛しているなんて生まれてから一度も言ったことがない。だからそんな言葉を待っているだけの女性とはうまくゆくわけがない。またぼくは付き合った女性はたった一人である。付き合い続ければ結婚していたことだろう。でもたった3ヶ月で別れた。それが短いか長いかぼくは知らない。セックスをする≒ぼくは結婚するべき相手であるという認識は、フリーセックスの時代では変わり者扱いされるかもしれない。でもぼくはそうなのだ。

話を戻そう。ぼくは芸術で何かをしようと考えている。ぼくの芸術に対する認識で何かをしようと考えているのだ。それは起業だ。一般的にはベンチャー企業と言われる仲間に加わろうと考えている。だがそれは世界中を探してもない企業になることだろう。でもそれはどこの企業にも厳密に言えば当てはまることだ。ただしよく似ているとはいえる。ぼくの考えている会社はどこのも前例のないものになるだろう。だがそれがつまり前例がないものが過去になかったわけでもないし、現代においてもないとは断言できない。それは当然の認識だ。ぼくにとってというべきかも知れないかもしれないが。また資本主義の原理で言えば、ぼくは莫大な利益を得る可能性が非常に高いだろう。とはいえ一般的な会社と違って営利を追求しよと考えられた上で得られることの利益とは言えないかもしれない。企業理念がまるきり独特だからそういうしかないのだ。NPO法人みたいな物とも違う。もちろん一般的な会社とも違う。なぜこのようなことが可能なのか考えてもみないことは、世界中を探してどれだけあるかぼくにはわからないが、世界標準とはかけ離れたスタンスで起立することだろう。

車のメーカーは車で世界に勝負し、世界一の車メーカーになることができる。その莫大な儲けは注目に値するが、ぼくには関係のないことだ。それは僕にとって虚しいことでありえる。なぜなら大衆におもねずにはおれないからだ。たくさん売れることが至上命題の会社とは、ぼくのやり方とは違ったものになる。ぼくは大衆に媚びるのではなく大衆を導く。新しいライフスタイルの確立を促す。小説で言えば一種の教養小説ともいえよう。大衆の好みを無視はしないが、大衆を教育することをやめないだろう。それは学業とはいえない。生きている上において何がもっともベストであるか大衆に気づかせるのだ。ただし大衆は考えないから大きな視点と小さな視点を併せ持って対処する必要があるだろう。CMにおいても画一化された方程式のような方法があるが、それについてもぼくはまるで違う視点で考えている。すぐに売れるものと遠いビジョンをもってしてことに挑むのだ。極端な視点を合成させながらことに望む。

とはいえシンプルな考えをぼくは持っているだけなのだ。ぼくは生きること生き残ることに加担する。この言葉がすべてだ。人類が生き残るには何が必要かね? と問うことができたならそんなに難しいことではない。だからぼくにとって芸術が全てであると言えるし、映画を撮ろうが書物をだそうが会社を設立しようが、僕にとってはなんの違いもないのだ。

by ningenno-kuzu | 2017-03-21 10:08 | 藝術の光と影 | Comments(0)
ぼくは仕事だったらなんでも構わない。適当だ。仕事なんてなんでもいい。そうだろ? 考えてもみたまえ。仕事で金品を得る。ただし内容は問わなくてはね。それが仕事かどうか。そうだろ。なんだっていいじゃないか。それを使い世のため人のために使ってご覧? それが自分を確立するんだ。そうだろ? まあ頑張りたまえ。
by ningenno-kuzu | 2017-01-13 20:09 | 藝術の光と影 | Comments(0)

世界の果てまでも

『世界の果てまでも』といえばヴィムベンダース監督作品だが、ぼくは映画の話をしようというわけではない。かの監督は優れた監督でいくつも名作を作り続けてきた。でもぼくはやはりここで映画と距離を置く。一般的な芸術や文化というものに触れたいからだ。映画は総合芸術だが、やはり芸術という名のひとつのカテゴリーに過ぎない。ぼくはふと思うのだ。なにが我々を生かしなにが我々を未来に導くかを考えてしまう。それこそが芸術であり文化なのだ。

我々の抱いた王冠は捨てがたいものがある。日常さりげない行動にぼくは芸術を見ることができる。これらは代え難いものなのだ。生きるということと密接な関係がそれらにはあり、そこが一種の我々の立ち振る舞いまで浸透していると思える。これはなんだろうと思う。体験は確かに重要だ。でも体験だけですべてを述べることはできない。またこれを簡単にDNAの問題にするわけにもいかない。何万年、何千年と続いた歴史性。その中にあってぼくらはきっとなんらかの目標を得ているのだ。ただ単にお金を稼ぎ生きてゆくという以上にぼくらは深いところで、日本人なら日本人としての行動様式が出来上がっている。

これらは解明不可のだろう。だが確実にあるものだ。識者は問うだろう。芸術とは何かを。しかしながらそれを絵画や音楽などに集約することはできない。もっと別次元であるもの。なぜぼくらは食物を摂るの? この基本概念に密接に繋がっているのだ。芸術を特別扱いしたがるやからが多いが、特別なものではなく、備わっているものなのだ。しかしそれは現代では忘れ去られている。自分を大事に扱おうとはみなしていない。自分が特別な存在者であるという認識に欠けている。これは致命的な事実だ。

なぜ100年前じゃなく現代に生きているのか? 生きていること自体、奇跡なのだ。そういう認識にみな欠けている。ぼくらは選ばれし民なのだ。その自覚がなくただ漫然と人々は生きている。ちっちゃな器の中でこれが正しい生き方など、これが人間のモラルだと言わんばかりに大人たちはいかにも自分が善人であるかのように装っている。だがそんなものは嘘だ。それを知っている人だけが、その奇跡を知っている。体現しているのだ。こんなことをぼくが言ってみても始まらない。ぼくはただの歳のいったもう使い物になりそうもない人間なのだ。ぼくは有名人じゃない。影響録など皆無だ。ぼくが書き物をしていると知っている人は3千人にもみたないだろう。それでもぼくは言うことができる。ぼくは自分の意見を言うことができるのだ。こんな単純明快なことができない人が圧倒的多数だ。誰かがこう言うからこうしたら誰かに咎められるから習慣に任せ何も考えもしない。その人にその能力がないわけじゃないんだ。みんな持っている。ある時代からほとんどの人がそれを放棄し、世の習わしにどっぷりつかり、現代を現代人ぽく生きているのだ。好楽にまみれ生きることをやめてしまった。自分として生きることをやめてしまったのだ。ぼくは子供たちだけにみる。彼らの美しい眼差しを。濁っていない眼差しだ。だが彼らも大人になり、失ってしまうのだろう。ぼくは絶望している。

by ningenno-kuzu | 2016-10-08 17:28 | 藝術の光と影 | Comments(0)

映画と本のオタク的事情

最近でこそあまり映画は観ないが、むかしは事あるごとに観ていた。それがテレビ映画であれなんであれだ。現在にはテレビがないので、テレビで映画は観れない。昔といえど、ヒット作を観たわけでもない。それもありだが、ふらっと街に出て、映画館を物色し、掛かっている映画を無作為に観たのだ。とはいえぼくの住んでいる町では映画館がなく、中心街にでなければならなかったが。そこにはまだ、ミニシアター系の映画館があった。現在は知らない。ぼくの行動範囲が狭まったのだ。それは加齢によるものかもしれないし、現代の映画に魅力を感じないからかもしれない。

ぼくは物心ついた頃から映画はテレビで観ていた。淀川長治さんの「さよならさよならさよなら」を一体何度聞いたことだろう。映画は母の趣味であったのだ。ぼくは子供だったので、最後まで観ることなく寝てしまうこともあったろうが、映画に魅せられて最後まで観ることも多数あったと思う。ぼくの中の映画の種子はそうして植えつけられたのだ。ぼくは映画を撮影することまで考えるに及んだのは、そういった体験があったからだろう。そうして劇場にかかる映画。『ゴジラ対モスラ』とか『ガメラ』とかいった特撮ものは、子供らしく自分の中で映画を楽しむ習慣を作ったのだ。

映画館の魅力はぼくの中で消えることはなかった。壮年期まで。そうして先にいったように映画を監督しようとまで発展した。素晴らしい数々の映画。闇を切り裂き投影される映像。そこでくり広げられるめぐるましく繰り広げられる物語。それら映画の魅力はぼくを虜にした。映画を撮ろう。そう考えていろいろ活動もした。しかしながら現在まで撮影には至っていない。それは運が悪かったのだ。これから先はわからないが、映画はいつでも待ってくれるのだ。

本はぼくの家にはごく自然な形でもたらされた。ある日、母がクリスマスプレゼントにヴィクトルユゴーの『ああ無情』を買ってくれた。子供の頃だ。押しつけではなく、自分が読んで良かったものを母はぼくに買ってくれたのだ。これがはじめだった。ぼくが本にのめり込むはじめだったのだ。映画にしても本にしても、決して多くはないが読んで観てきた。おそらく1000と1000くらいにはなるだろう。本を1000冊読んで、映画を1000作品は観ている。だがどれもほとんど記憶にない。それらはいつも間にか、良くいえば自分の物となってしまったのだろう。

ぼくの観たり読んだりする基準は、自分が面白いことや興味のあることがすべてだ。だから一貫性がない。雑食だ。ただし映画で言えば、ホラーとかスプラッター物は観ない。金を払ってまで怖い思いはしたくないからだ。観たことがないわけじゃないが、エクソシストに至ってはまともに観れなかった。怖すぎたのだ。小学生には少しヘビーだったのだ。ぼくは映画も本も大切にはしないが、映画のビデオや本の類は、一切捨てたり売ったりしていない。これは本や映画のビデオばかりじゃない。中学あたりからもらい始めた年賀状の類も一切捨てたりしていない。それは書き手でもあるぼくにとって重要なことだ。記憶を再現するにはそういった手紙などが、キーとなって発露することがあるのだ。それは創作ノートとて同じで、50冊位ある創作ノートをいずれぼくはすべてに眼を通すこととなるだろう。

ぼくはよくふらっと街に出て映画を見たり本を買ったり、美術館に行ったりしていた。それに理屈はつければつけられるかもしれないが、本当のところは理屈などないかもしれない。ぼくの特性であり、いってみれば個性だと言えるものかもしれない。映画館に入ってまだ上映時間には時間があるとなると、切符もぎりのアルバイトなんだろう、女性と映画の話をしたりした。とはいえ俗に言うナンパではない。映画が観たくて映画の話をしたい一青年であったまでだ。その映画は『どもだちの家はどこ?』というキアロスタミ監督の映画が掛かっている映画館だった。現在はもうない。

本は小説、物理の本、精神分析学、言語学、詩学、民俗学、等々、なんでも読んだ。今と比べ本がたくさん読める時代もあった。現在はそうもゆかず、ほとんど読めなくなった。体力気力がなくなったというより、自分の中で醸成された物が、読むことを拒むのだ。それはどんな本でも同じで、自分の考え、もしくは美学というものが固まりつつある現在において、新たに価値を導入するにはぼくに与えられた時間ではもう足りなくなりつつあるあからだ。それは映画をあまり観たいと思わせない現在があるのと同じで、ぼくは受け手側から既に発信側になりきりつつあるのだ。

読む観るではなく。書く撮影する、に変わってしまいつつあり、ぼくの中の残された未来に加担するなら物理的にぼくは書く方と撮る方、つまり創作者としての立場への移行が急がされている。のだ。そういうわけでありまして、自分で自分に期待しつつ、自然に創る方に向かいます。誰かが読み、誰かが観る物を。

by ningenno-kuzu | 2014-05-17 12:50 | 藝術の光と影 | Comments(0)

元町アート

e0106960_20352189.jpg作業場からぶらぶらと歩いて元町アートへ。元町アートとはぼくが勝手に決めた。こういうところいいでしょ?まだここには日本があった。グラスの芸術作品は賞をもらってた。なんて賞かは忘れた。e0106960_2025985.jpge0106960_2026626.jpg
e0106960_2030454.jpg
e0106960_20412830.jpg

その展示会も今日で終了。お話した人、ありがとうございます。ここいらももっと頑張らねば。
by ningenno-kuzu | 2011-11-23 20:27 | ニュース | Comments(0)

自画像 paint by 魔ギオ


by 穴田丘呼